自由
今日はひょんな事から、久しぶりに車を運転した。
天気も良く桜並木を見ながらドライブ。昼休みに妻を乗せてちょっとそこまで、という時間も得られた。
この何気ない時間に、かなりの自由を感じた。
春の陽気で心も軽やか、ということも勿論あるのだけど、それだけではない。
なんだろう、移動する自由度がやはり違う。人生の選択肢、つまり人生における行動の選択肢が広がる、とすら思ってしまった。別に初めて乗ったわけでもないのだけど、車を手放して長らく経ち、久しぶりにハンドルを握り自分のコントロールで目的地に移動する、あるいは走ることを楽しむ、ということに喜びを感じたんだ。
ちょっとした時間ではあったのだが、ちょっとではない充実を感じた。
やっぱり車欲しいなぁ〜。
ところで、自由、といえば、いま再び哲学的な本で竹田青嗣さんのものを久しぶりに読んでいるのだけど、そこにこう書かれている。
自己と世界をどこまでもより深く知ろうとするこの精神の運動性を、ヘーゲルは、精神の「自由」の本性と呼ぶ。
これは良い言葉だな、と。
知的好奇心とも言えそうな表現だ。
自己と世界。深堀りをすすめていきたい、いまそうした興味が高まっているから目に止まったんだろうな。
少しずつ
今日は学びというか背中を押して頂けるような出来事があり、ちょっと嬉しい。
あまり感情表現が得意なタイプではないのだけど、じんわり嬉しさを噛みしめる、というか。
慎重なタイプなので、強気に自己表現するとか、自分に自信を持つ、ということが得意ではないのだけど、しかしそれで卑屈になってもいけなくて、ナチュラルに自分を出して、そこに健全な自信に支えられた表現ができると良いな、と思っていたりする。
あ、最初から話がそれたけども、いま学んでいることについて、褒められるとやっぱり嬉しいし、どうやって経験を増やしていけるかわからないなかで、アドバイスだったりその手助けを申し出ていただくということは、とても有り難いことだし、そのことが嬉しいし。
分からない中で、一歩前に歩き出す機会が得られたことに感謝したい。
まずは、慎重な僕でも安定した自信が持てる位には腕を磨いていけるよう、学びと経験の輪を回していって、レベルアップしていきたい。
値段
あなたなら、1万円あったら何に使う?
色々あると思う。例えばちょっとお高いレストランのコースなど、美味しいものを食べる、っていうのは一つ良い選択肢だ。
腕を磨いた料理人が素材を調理し独創的な味付けや盛り付けを加える。それを雰囲気の良い店内で待つ僕の目の前に現れ、美味しそうに舌鼓を打つ。
例えば一人5千円だとしたら、嫁さんと二人で料理を楽しみ話に花を咲かせたり。
1万円の使い道として美味しいものを食べる、という価値があるのだけど、例えば自分が1万円の価値を誰かに提供できるのだとしたら、それって一体なんだろう?
そもそも、1万円分の価値って、何だろう?
それは人それぞれだと思うから、自分の基準で比較する他ない。例えば何かを買おうとして高い安いというのは、何か基準があるからだ。1万円のカップラーメンと、1万円のテレビ、と聞くと、それぞれ受ける印象が異なるのは、その商品に対する基準を自分の中で持っているからだろう。
それは比較の問題で、”1万円分”となると、どうだろう。何をもって1万円分の価値とするか。
例えば僕がすぐ思うのは、1万円分の美味しい料理、だ。それも、一人ではなく嫁さんと二人で食事すること。
それをあえて「思い出」と呼びたい。この「思い出」が基準として取り扱うと、この基準を満たす、あるいは超える、というのが1万円分の価値にあたる。
製造物である商品には原価があるので、ここではサービスについて焦点をあてたい。
お客さんがいて、お客さんに与えるサービスに1万円分の価値があること。
それは思い出になるような価値。
なかなか定量的に測ることは難しいのかもしれない。自分にとって1万円分のサービスが、他者にとって等しく1万円分かはまた別だし、じゃあ5千円分のサービスだとしたら、1万円分に比べてサービスの質を落とすの?落とすとしたらどの程度?とか調整がきくのか、ってのもある。
すると、この話って、1万円分の価値を与える、という入り口ではなくて、自分が与えられる価値ってお金に換算できるのか、換算するとしたらいくらなのか、その根拠は?という質問になってくる。
そしてその根拠があるのなら、入れ替わって自分がサービスを受ける際に、金額に対してその価値が見込めるだろうか、という自分の尺度にもなる。
お金では買えない、測れないものは沢山あるけれど、お金とサービスのことを考えていたら、そんなことをふと思った。
再開?
2019年から絶賛放置中のこのブログ。
自分で言うのもなんだけど、とても気分屋で、自由でいたい性質がある。
そのことで良いことも悪いことも沢山あるのだけど、でも結局のところは、気の向くままに、というところ。その一端として、このブログの更新もお休みしていた。
前回の更新以降は、まあ思い返せば色々あったのかな。
で、その色々ってのは様々な影響を及ぼしつつ、色んな結果に結びついている。
そうしてここでいま、このブログを再開しようかなぁ、という気になる結果に結びついた。
その直接の理由は、アプリで読者登録の通知が来たから!
え!2年弱放置中のブログにいまさら読者つくの!?ありがとうございます!!!
ていうかそんな通知くるようになったの!?いつから!?
という驚きと嬉しさ。
そして、少なくとも登録している方々がいらっしゃる。
その事実を思うと、チラシの裏的な一方方向のブログを、読んでいるのか読んでいないのか、でもとりあえず読者登録ポチーっとしてくれた方がいる。
そのことが何となく嬉しくって。
だからといって、ヨッシャいっちょやったろ、というような意気込みなんてなくて。
むしろ他のブログを持っている中で、このブログどうしようかなぁ、と若干思っていたのも事実で、そのタイミングでの通知だったので、この際再開しようかな、と思えた流れがあって。
実は、知り合いの誰かが見ている、ってだけで、あんまり書く気が無くなっちゃう性質。それを意識する時点で、自由でなくなるから。
自由気ままに書いていて、反応があったら勿論嬉しいけども、なくても思いついたことをちょっと書いておこう、くらいの使い方で僕にとっては丁度良くて。ブログ書く時間って嫌いではないから。
だから、なんとなーく、「あーこれ見られているのかな〜」って思う可能性を考えると(でもそれは被害妄想の一種でもあるのだけど)、それでなにか自由を奪われたような気がして。でもこれは僕が勝手に思っていることなんだよね。そもそもとして、勝手に書いているだけってのもあるし。
自分の中で、もはやそんなことを気にしているのがナンセンスになってきたのかもしれない。
もうそういうことをあまり気にしても意味ないのかなぁって最近思う様になってきた。結果誰も見てなかったとしてもw
このあたり、みなさんリアルとブログって分けている?分けていない?単にスタイルの違いかな。
と、どうでも良いことを書きましたが、ちょっくらこのブログ再開してみますね。
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"君の指導理性はいかに自分を用いているか。この一時に万事がある。その他の事は君の自由意志の下にあろうとなかろうと、死と煙に過ぎない。"
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金言に溢れた本だった。少しずつ読み進め、読み終えた頃には付箋やドックイヤーだらけの本になっていた笑
自省録を読もうと思ったきっかけは、NHK Eテレの「100de名著」だ。たまにこの番組を見るのだが、早くからその反響はネットを通じて目にしていた。
番組の解説員に、「嫌われる勇気」で著名な岸見一郎氏が出ていることも興味を引き、その本が好きな妻も、この番組を通して自省録に興味が湧いた一人だ。
読んだ感想として、自分の本分を全うすることを重視し、他人のことをあれこれ考えることで自分を消費するな、ということが繰り返し書かれている。今も昔も、悩みのタネは人間関係であることが伺い知れるが、そういった事柄一切は主観からくるものであり、そうした主観は捨てよと言っている。大切なのは、公共福祉を目的として理性的人間として己の指導理性に従い、本分を全うし、いつ死んでも良いような日々を過ごすこと、といったことが書かれているように思う。哲学者になりたかったものの、皇帝の座につかざるを得ず、書斎人になること叶わず政治と戦の日々を送っていた。裏切りにあったり、更には妻や子供をなくしたりと、悲痛な経験をいくつも持っているが、それらに負けず己の務めを果たしたのだ。その彼を支え続けたものはなにか、挫けそうな精神を、ストア哲学の教えからくる考えを、備忘録的に日々記し、自分に言い聞かせていた、そんな姿がこの本から想像できる。
訳者の神谷氏が、ストア哲学についてうまく言っている。
不幸や誘惑に対する抵抗力を養うには良い。我々の義務を果たさせる力とはなろう。しかしこれは我々の内に新しい生命を沸き上がらせるていのものではない。我らの生活内容豊富にし、われらの生活肯定力を充実し又は旺盛にするものではない。そういう力の泉となるには、全人格の重心のありかを根底から覆し、置き換えるような契機を与えるものが必要である。それはストア哲学にはない。
そして、こう続けるのだ。
しかしこのストア思想も、いちどマルクスの魂に乗り移ると、何と言う魅力と生命とを帯びることであろう。それは彼がこの思想を持って生きたからである。
あくまで人間らしい心情と弱点を備えた人間が、その感じやすさ、傷つきやすさのゆえになお一層切実に絶えず新たに不動心(アタラクシアー)に救いを求めて前進していく、その姿の赤裸々な、生き生きとした記録がこの自省録なのである。
見事なまとめだなと思う。
確かに、僕はマルクスのような偉人ではない。しかし、同じ人間だ。だから、僕にもその心構えは学ぶことができる。
自分が弱ったとき、しっかりと自分の足で立てなくなりそうなとき、自省録の言葉を思い出したい。そう思わせてくれる本だった。