過ぎ行く日々を少しでも。

日々の色々を記録していくトコロ。

お金って

何だろう。

という疑問を、とあるパプアニューギニアの地域で使われる「貝殻」の貨幣から考えてみる、というラジオを面白く聴いた。

なにその古代www とか思うかもしれないけど、その地域は植民地でもあったから、つまり歴史的にも先進国による貨幣経済が根付いた暮らしをしていて、国の通貨もありそれで回る経済のインフラも持っている。それに加えて、昔ながらの貝殻貨幣が「いまでも」共存できている、のだから面白い。そこには共同体と個人の結びつきと、それにより得られる「生きる目的」というものを感じるようで、奥深いお話であった。

すごく簡単に言うと、「タブ」と呼ばれる貝殻通貨は、単に「モノ」と交換可能な価値をもつのではなく、「人」そして「共同体」との繋がりをも象徴するものになっている。その最たる事例として、人が死んだとき、参列者が故人へ捧げる「タブ」で作られる輪っかがあり、その大きやさ数の多さで、故人がいかに立派であったかを示すことになったり、あるいは故人が貯めた「タブ」が参列者に配られ、その量が多ければ多いほど、立派な人であった、とされるようなのだ。タブは単に交換可能な貨幣だけの意味ではなく、共同体におけるある種の証のようなものを持っている。

これはまさに村社会のコミュニティのようであるが、そこには共同体が育んできた文化があり、貝殻という象徴がシステムに組み込まれて機能しているのが面白い。

 

日本では何のために働くのか、何のために生きるのか、それはお金のためなのか、という虚しい問いかけへの答えがパリッと出てこないように思えるのは、一つ、共同体という概念が薄まったからなのかもしれない、と思うのだ。核家族が進み少子高齢化社会を突き進んで久しく、人口減少が進み無理難題が続くからこそ、ますます共同体を意識した共生が必要になるのではと思いつつも、一方で個人化は進みそれぞれの自由を謳歌しその中から創られていく可能性や未来もあるのだろうとも思う。楽観的に考えればそのなかから新たな共同体の形というものが誕生するのかもしれないし、悲観的に考えればみなが自分のことばかり考えてバラバラになる、というものかもしれない。

 

ちょっと話が脱線してしまったのだけど、つまり僕が思う「お金」と、パプアニューギニアの人が思う「お金」というものは結構違うのだな、ということが知れて面白かった。