過ぎ行く日々を少しでも。

日々の色々を記録していくトコロ。

不安の精神

我々は不安を眩暈に例えることが出来るであろう。その人の目が裂け開いた深淵をのぞきこむようにさそわれた場合、その人は眩暈を覚えることであろう。ところでその原因はどこに存するのであろうか。それはその人の眼のうちに存するとともに、深淵のうちに存する。彼がその底を凝視することさえなかったであろうならば! ちょうどそのように不安は自由の眩暈である。精神が綜合を措定しようとする場合、自由が自己自身の可能性の底をのぞきこみながら同時におのが支えを求めて有限性へと手を差し伸べる時に、不安が発生するのである。

不安の概念 (岩波文庫)

不安の概念 (岩波文庫)

 

 

キリスト教における"原罪"について取り扱い、その前提として"不安"があるということを心理的な面に注目して書き連ねている。

 

キリスト教を知らない僕は、たたでさえ難解な本書を読むのは非常に辛いものがあった。具体的に理解できることが少なく、五里霧中の状況であったのは言うまでもない。

せいぜい、いつものことながら、著者の洞察を拾い集めるということしか出来ない。

それをいくつかピックアップするとしたら以下のとおりだ。

 

特に最後の3つは僕にとってとても示唆的だ。

 

精神が自己自身を措定するその瞬間において、精神は綜合を措定する。

未来的なるものは永遠的なるものの(即ち自由の)可能性として個体のなかでは不安となる。(中略) 可能的なるものは徹頭徹尾未来的なるものに対応している。可能的なるものは自由にとっては未来的なるものであり、未来的なるものは時間によっては可能的なるものである。そのいずれも個体的生活においては不安が対応している。(中略) もしも私が或る過ぎ去った不幸に関して不安を感じているとしたら、そのことは、それが過ぎ去ったという限りにおいてではなしに、それが再現さられうる従って未来的たりうるという限りにおいて、起こるのである。(中略) 不安は罪に先行するところの心理学的な状態である。

ところで、私の宗教的存在が私の外的存在にいかに関係しそのなかでいかに表現せられるかということを解明する事こそが、問題なのである。(中略) それにしても、現在の我々の生活はまことに未だかつてないほどにすみやかに疾過し去る瞬間として現れてきている。しかるにひとびとはそこからして永遠的なるものを把握することを学び取ることのかわりに、瞬間を追いかけることによって、自己自身とその隣人とさらには瞬間とから生を奪いとることだけを学んでいる。ひとびとが一緒に集まって、瞬間の旋回のなかでただ一度だけ一廻り一緒に踊ることが出来さえすれば、それでもうひとびとは人生を味わったのである。

饒舌における言葉というものは思想を覆い隠すため、還元すれば、なんらの思想を持っていないということを覆い隠すために、存在しているのだ。

自由といっても、この世においてこれやあれを成し遂げたり、王様とかカエサルとか時代の代弁者とかになったりすることの自由ではなく、自己が自由であるということを自己自身のもとで自ら意識していることの自由である。

理解と理解とは同じではない、と古い諺に言われているが、全くその通りである。内面性はひとつの理解である、しかし具体的にはこの理解をいかに理解すべきかということが問題なのである。話を理解することはひとつのことである、その話の中で私に関わっているものが何であるかを理解することはまた別のことである。ひとが自ら語ることを理解することはひとつのことである、語られたことの中で自己自身を理解することはまた別のことである。意識内容がより具体的になればなるほど、それだけまた理解はいっそう具体的になる、そしてかかる理解が意識との関係において欠如している場合、我々は自由に対して自己を閉鎖しようと欲するところの不自由性の現象を持つことになるのである。

いかなる作家も、この上なく語彙の豊富なかつ最大の表現力をもった作家といえども、そのような自己意識のただひとつでもこれまでかつて描写することができなかった程にそれは具体的なものなのではあるが、しかもここの個体はかかる自己意識をもっているのである。かかる自己意識は静観ではない、それをそうだと思い込んでいる者は自己自身を理解してはいないのである、------彼は、自分というものは同時に生成のなかに捲き込まれているものなのであり、それ故にそれは静観のまとまった対象とは決してなりえないものであるということを洞察すべきであったろう。かかる自己意識はそれ故に行為である、そしてこの行為はまだもや内面性である。

「何が彼に人生を真剣たらしめるか」という言葉は、その含蓄ある意味において、その人間の最深の意味における真剣さがいつから始まったかということからして理解せられなければならない。(中略) 要するに問題は、果たして彼が最初に真剣さの対象に関して真剣になったのであるか否かに懸かっているのである。いかなる人間もかかる対象をもっている、なぜならそれは彼自身だからである。もしも誰かがそのほかのいろいろな事柄に関しては、あらゆる大げさなことかまびすしいことに関しては、真剣になりはしたが、ただ彼自身に関してだけは真剣にならなかったとしたら、彼はそのあらゆる真剣さにも拘わらず一個の道化師なのである。