読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

過ぎ行く日々を少しでも。

嬉しいこと楽しいこと悲しいこと腹立たしいこと。日々の記憶を少しでも紡げる様に。

VRの本

『VRビジネスの衝撃 「仮想世界」が巨大マネーを生む (NHK出版新書)』

著・新 清士

 

筆者はVRがもたらす没入感を体験してからすっかり虜になったようで、その強烈な体験から、VRビジネスが持つ将来性に信頼を置いている。

技術は主に以下3種類に分かれ、本書ではVRを主としてヘッドディスプレイの進歩を語っている。ARはスマホアプリでも知っている人がいると思うが、カメラを通した映像に情報を付加表示するものだ。これに対して、MRというのは目に見ている現実の風景に、まるでそこにいる/あるかのような存在感のある物体を映す技術であり、視覚上は現実と虚構の区別がつかなくなるのだ。

AR(Augmented Reality : 拡張現実)

VR(Virtual Reality : バーチャルリアリティ)

MR(Mixed Reality : 複合現実)

キックスターターと呼ばれる著名なクラウドファンディングのサイトから資金集めから始まり、その後Facebookに買収されたオキュラス社とその創業者パルマーラッキー氏(現在はFacebookを退社)のストーリーを扱いながら、欧米におけるPCゲームコミュニティでの意見交換やゲームエンジンの働きが、VR誕生には欠かせない要因であることも紹介されている。

本書の中で触れられている、日本と欧米のコンテンツ作りの発想が違う点が面白い。

そもそも言葉の定義に違いがあるらしい。

バーチャル=仮想という日本語訳は日本IBMのSEさんが発案したものでその後定着したのだが、ここに含意される意味合いが日本と欧米で違うというのだ。

日本で仮想といえば、虚構上にある、現実とは”別”の何かを意味することになる。

一方、欧米におけるバーチャルという言葉に含意されるものは、現実世界に存在する対象と”同等の意味を持つ"なにがしかなのだ。

つまり、日本的な仮想とは、現実とは切り離された観念の世界であるのに対して、欧米におけるバーチャルとは、あくまで現実の世界の延長にあるものとして対象を想起している、というのだ。

"「ミクミク握手」や『サマーレッスン』など、仮想のキャラクターとのコミュニケーションを楽しみ、本来は実在するはずのない世界を、あたかも現実だと認識するような実在感を持って体験させるところに、日本のVRコンテンツの特性があるのかもしれません。(中略) 実体のない仮想としてのバーチャルを実現しようという情熱は、日本人のバーチャルに対する考え方から生まれているのかもしれません。”

 

今日、日本では簡単なVR体験というのは自宅でできる時代でもある。

プレイステーション4の例を出さずとも、例えば、スマホでVRアプリは無料でダウンロードできるし、ヘッドギアも安価なものであれば1000円程度で入手可能だ。

アプリでは四辺が歪んだ映像が左右同時に映し出されるのだが、ヘッドギアを装着すると目の前にはまるで自分がそこにいるかのような映像が映し出され、頭を左右に回せばそれに伴って見ている視野も移動する。

没入感という意味では決して高くないものの、VRとはこういうことか、という体験が手軽にできる周辺ツールはすでに用意されていることが分かるし、実際に僕も安いヘッドギアを買って試してみた。

試してみたコンテンツは、二次元キャラが耳かきをしてくれるというソフトで、とても日本的な発想で面白いし、初のVR体験でかなり新鮮だった。うまく頭を膝にのせるのが難しかったけど。。

もう一つ試したのは、フジテレビが提供する、VRアイドル水泳大会 騎馬戦というこれまた邪なものでかつとっても日本的なコンテンツ。実際のビデオ映像が360度できるというもので、カメラを中心に水着の美女たちがゆっさゆさ、もといバッシバシと騎馬戦バトルを繰り広げるコンテンツ。

なるほど、リコーが360度カメラをリリースしているけど、こうやって使えば新しい映像コンテンツが作れるのだなぁと感心した。

ハードウェアの進歩と需要が高くなればなるほど、価格が安くても質の高いVR体験が自宅でできるようになるかもしれない。

そこで重要なのはコンテンツなのだけど(本書もそのあたりチラッと展望を書いている)、まだまだゴミあさりに近い、というブログも見られるので、これからの発展に期待、というところだろう。

新しい技術が活気づき新しい体験ができるようになるのは、面白いよね。

益々盛り上がって欲しいと思いつつ、酔うし眼が痛くなるとも思うので人体への影響に関する研究も進んで欲しいところだ、と思ったりする。

 

ネイティヴに

英語をもっと自然に使えるようになりたい。

もっといえば、気の利いたことをもっと使いこなして積極的に使っていきたい。

その方がコミュニケーションが円滑になるし、もっと近づける気がするからだ。

僕はまだ、相手の好意に報いるということを十分に果たせていない気がする。

読後の憂鬱 / 命の器

昨日から夜になると憂鬱な気分に襲われる。

なぜだろうか。

宮本輝氏の小説を最近読んでいて、その流れでエッセイ集である「命の器」を読み終わったのが昨日で、もしかしてそれがきっかけなのかもしれない。

なぜきっかけになるかというと、ちょっと言葉で的確に言い当てられないのだけど、自分と向き合う、ということにスポットライトが当たっているからだと思う。

明確に自分を向き合う、という作業をしているわけではないのだけど、読後はぼうっと内省することが、少し増えた。

そうすると何が起こるかというと、不安な気持ちが湧いてくるのだ。

この不安なるものはどういう種類のものなんだろう。

それもまだ分かってはいないが、昔に似た経験はあるので、やはりこれは不安なのだよなぁとひとりごちするのだ。

しばらく横になってその気分のままぷかぷかしていると、少しづつ沈んでしまう。

精神が弱り、時間だけがただ過ぎていく。

シャワーを浴びると、少し気分転換になる。

そしていま、気分転換がてら、ブログに少し書き綴っている。そうすると、少し心が軽くなるのだ。

物書きをするということは、自分と向き合うことだったり、不安との戦いであったり、はたまた書くというアウトプットの行為を通じて癒やしを得る、というものなのかもしれない。

氏が命の器の中で書いていた、持病と隣合わせにあった苦しい日々のことを思うと、少しそうしたことを思うのだ。

 

 

命の器 (講談社文庫)

命の器 (講談社文庫)

 

 

 

 

 

ブルーなホワイトデー

今日はホワイトデーだ。

会社の職場でホワイトデーのお返し選定のため、某チョコ屋で品物を見ていて、これかな、というものを予めあたりをつけていた。

その時に妻もいて、彼女は彼女で、「私にはこれがいい」というのを冗談を交えた会話の中で言っていた。

そうして後日会社の人たちに選んだチョコは、本日当人たちに手渡っていき、一方で妻へは、「これがいい」と言っていた、会社の人達に選んだホワイトデー限定品のラインナップとは異なる、価格帯的には上のグレードのものを選んだのだ。

昔ホワイトデーでチョコを贈ったときに、トリュフのものが良いと言われたのを覚えていて、トリュフ入りを選んだのだ。

その結果。

「これがいい」と言ったものではないことで、かなり落ち込んだ。

望んだものではないことで、涙目にすらなったのだ。

彼女としては不要なサプライズであり、これがいいと言ったにもかかわらず、その意志は僕には伝わっていないという、一種の意思伝達が叶わなかった悲しみを抱いたのかもしれない。

一方僕としては単純に喜んでくれるものと思っていたものの違う結果に対する落胆と、日々の家事への手伝いや、各種の配慮、あるいは誕生日にちょっと奮発したプレゼントなど、それらは全て充分とはいわないながら、日々の積み重ねというものを信じていたのだ。でも、この日の涙で、たったこの一度の出来事で、そうしたものは軽く吹き飛んでしまうのだろうか、という疑問が湧いて出た。

確かに望みのチョコを贈ることはできなかったのかもしれない。

これは僕のワガママなのかもしれないが、サプライズが少し好きな性質があることは相手も承知しており、これが良いかな、と贈ったこの気持も少し考慮してくれれば、涙目にはならないのではないだろうか。

あの反応はまるで、自分の期待とそれが裏切られたショックで閉じられた、どこまでも自分だけのもののように思え、そこに僕に対する配慮というのは垣間見れなかったのだ。

それは残酷なまでに純粋な反応だった。

もちろん、そのあとに弱々しくありがとう、という言葉はあった。

だけれども、二人ともブルーになるこの結果は、一体誰が予想できただろう。

それほどまでに楽しみにしていたということか。

 

僕がもっと大人で、もっと温かい心で見つめてあげれば良いのだろうけど、今はただただ悲しい感情だけが宙に浮いている。

 

後日談:

妻の涙は、僕の悲しみを感じてのことだったらしい。

それでも望むものではなかったことではないことは確かだ。

だから僕は改めて買ったんだよ。彼女が欲しかったものを。

なぜかって?

彼女がそう思ったことは確かで、だからこそ悪い思い出のまま終わらせたくはないからだ。

それが僕の選択、ってことだね。

 

モーニングメソッド

勝手に略して、MM、今日から始めました。

次は、まず10日間続けること!

メモ

ただの駄文です。予めご容赦を。

 

寒い季節というのは思考が内向きになりやすいようで、それによってネガティブに陥りやすくもなる。

妻は寒いのは苦手で、特にこの時期はイライラしやすくなることも多い。

昔、結構危機的な場面に直面したのもこの時期だったし、それを振り返れば、今は平和とも言える。

それでもこの時期はイライラのせいで、攻撃的なセリフを口にすることもあるし、言葉使いもまるでギャルかのような品の欠ける口調になったりもする。

それも感情的になっているからであって、いわば下地がそこに見えるわけだ。

その事で悲しく感じることはあるけれど、それで全てが台無しになるようなことでもない。

むしろ、そのやり取りの中で発見したことがある。

俺っていう男は最近つまらん男になってやしないか、ということだ。

結婚をして自分で使えるお金に制限ができたことで、行動範囲が狭くなった、という事実はあるものの、そもそも僕自身内向きになったというか、あまり外で行動をすることが少なくなった。

夫婦の時間というのは確かに大事だが、何かそれだけでコップの中を満たしているというか、大部分の時間はそこに費やされている。

ともすれば、自分のやりたい事に時間もお金もかけられていない、ということだ。

しかし、だ。

自分のやりたい事って何だ?

昔は興味のあることはそれなりに手を出した。手を出すということはお金も必要なのだけど、いま自由になるお金はない。

それが心理的蓋となり、何もできなくさせている向きはあるのかもしれないが、じゃあもしそれを取っ払ったら何をやりたいか?

あ、でもあるな。スキューバダイビング。

でもこれはコストが高いのだ。リストから除外。

自転車かな。でも改造してまでやるほど、のめり込むきっかけというか仲間もいない。

では作ればいいじゃないか、という案もある。

話は変わるが、長期的に見てやらなければいけないこと、やっておいた方が良いことがある。

・英語

・運動

・人との交流(新しい友だちを作る)

主にこの3点。

英語と運動は持続的にコツコツやらなければいけないこと。

なのに何かと億劫がってできていない。それによって苦しむのに。

やらないですめばこしたことはない、そいういう自堕落な精神が、転じて僕自身を裏切り続けており、それが僕の中で大きなダメージとして蓄積されているのだ。

なんて情けない男だろう。

人との交流というのは、結局のところ世の中は人と人との繋がりの上で出来ているのであって、もっと積極的に人と関われるようになりたいと思うからだ。

最近、結構僕は人嫌いなのかなぁと思う。嫌いというより、面倒くさがりだ。

必要以上に人と関わろうとはしないし、他人の面倒に巻き込まれたくない、という考えが先に働いてしまう。これが内向きにさせる。

一方で、もっと前向きに人と関わりたいとも思う。特にコミュニケーション能力の面でだ。

僕は話をするより話を聞くほうが楽で好きなのだが、話さないでいると話下手が下手なままなわけで、いざ話すとなると話下手が話すのでつまらないものになる、と思うのだ。僕の場合はね。

その日あるいは最近あった出来事や、読んだ本の話、時事問題などなど、話すというアウトプットをしないと、なんとなくインプットされ、なんとなく忘れていく。

話すことでその情報が強化される面を考えれば、話すという刺激を多く持ったほうが良いなぁと思う。

妻に話を聞いてもらおうと思うのだが、あまりそういう趣旨の話は聞いてもらえないのが悲しいところ。いや、まだチャレンジしていないか。

 

 

 

老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路

最近、「老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路」という目を引くタイトルの新書を読んだので雑感を。

老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路 (講談社現代新書)

老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路 (講談社現代新書)

 

 

都市計画という観点から眺めた時に見えてくる、現在の日本社会が抱える問題点を分かりやすくまとめてくれている良書。

どのような現状があるのか、そしてどのような問題点が語られているのか、というところを、少しまとめてみた。

 

現状の認識

目下人口減少の道を歩む日本は、不思議な事に住宅過剰社会なのである。

通勤電車の窓越しに、あるいは街を散歩中、あるいは車で他の街に出かけた時など、新築住宅が建設中である場面を見ることはよくあることだと思う。
しかし人口が減っているのになぜそんなにもポコポコと建てられるのか、不思議に思ったことは無いだろうか。
そこで、総務省統計局のホームページを覗くと、どのような現状かを確認することができる。
(以下の図はいずれも当該HPから引用)
 
2013年時点において日本の世帯数は約5245万世帯であり、それに対して住宅数は6063万戸ある。下図の通り住宅過剰の状態が常態化しており、そのギャップは年々増すばかりだ。

f:id:gomanori:20170205215931p:plain

 

空き家数の推移も下図ご覧の通り右肩上がりである。
その他というのは、賃貸用、売却用以外の人が住んでいない住宅で、転勤・入院などのため居住世帯が長期にわたって不在の住宅や建て替えなどのために取り壊すことになっている住宅などにあたるのだが、取り壊されずに空き家のまま放置されている物件が多くあり、治安面や災害面でも問題になっている。

f:id:gomanori:20170205220029p:plain

 

                      f:id:gomanori:20170205220043p:plain

 

なぜ建て続けられるのか。それは、売れるから建てるのである。
供給側である住宅・建設業界が特に分譲タイプの戸建てやマンションを大量に建て続けている理由は、土地取得費や建築費といった初期費用が短期間で回収できるため事業性を確保しやすく、引き渡し後の維持管理の責任も購入者に移るため事業リスクが低い。
購入側は住宅は資産と考え、また住宅ローンは減税や優遇措置も得られることが多いので賃貸より有利であると考えられるからだ。中古住宅という選択肢もあるが、まだま市場が未成熟であり新築住宅が中心である。
したがって、売れるから建てるというサイクルはなかなか止まらない。
 
では、建て続けられていることが、何がそんなに問題なのか。
一体、どのような問題があるか。
 
 
どのような問題があるか
 
居住地としての基盤が未熟な地域にも焼畑的に建設し続けることで、多額の税金が投入されざるを得なくなる、その無計画性、あるいはコントロール不能状態が挙げられる。
本書ではいくつかの自治体での実例を上げているが、ここでは大雑把に以下2つのエリアで、どのような問題があるか本書から紹介する。
 
- 東京都市部における問題
- 郊外地域における問題
 
 
都市部においては、タワーマンション乱立に伴う人口の急増、それによる社会インフラのコスト増という問題がある。加えて、タワーマンション内での合意形成が困難であることが管理不全に陥る危険も指摘されている。
例として湾岸地域におけるタワーマンションの問題がある。
現在、中央区江東区の湾岸エリアでは、2014年末で8.6万人の常住人口がいるが、将来東京五輪後にはこれに加えて約10万人もの増加が見込まれている。こうした人口の過密化で何が起こるかというと、例えば生活関連施設の不足が問題となり、保育園・幼稚園あるいは小学校などの不足、地下鉄のホーム過密などなど、社会インフラの問題が深刻化しており、実際に後追いで公共投資が必要になり、多くの税金が必要となるのだ。
それだけではなく、マンション内での合意形成というのは通常難しいものであり、それがタワーマンションともなると色んな人が存在するわけで、もっといえば投資目的に購入しそこに住んでいない人だっている。合意形成が難航すれば、マンションを健全に運営することもままならず、資産価値としても低下する恐れがあるのだ。
居住者が増えれば税収も増えるだろう、という見方についても本書は否定する。
東京は地方都市に比べて高齢者の数が圧倒的に多くなる傾向にあり、今後老人ホームの増設や医療・介護サービス等の社会保障関連のコストが莫大になることで、他の都市よりも相対的に貧しくなる危険性を指摘している。
 
ところで、なぜタワーマンションが乱立しているか。
それは、国や自治体がそれを後押しするかのように、「再開発等促進区を定める地区計画」という、まとまった低・未利用地の土地利用を促進するため、都市計画規制を特別にかつ大幅に緩和していることが要因にある。一定の条件を満たし自治体の許可があれば、面倒な手続きを経ずに容積率等の緩和が得られるという制度があるのだ。
これはもともとバブル前から都市部の土地が高騰し続けてきたことで、住宅用として都内の土地取得があまり促進されず、また工場や倉庫もすでに未使用となったことで土地が未活用のままであったことで、土地を有効利用することを目的とした制度作成の流れがあった。
それが回り回って無計画的なマンション乱立をもたらし、地域に大きな変化を生じさせている。
もう一つ付け加えると、筆者自身も強く疑問に思っていることとして、自治体によっては規制緩和だけでなく、多額の補助金投入がされている場合があるという点がある。
無論すべての自治体ではないが、超高層マンションを伴う市街地再開発事業に投入された補助金の半分は、国の補助金=税金から出ているというのだ。
(全くもって意味がわからない。。)
 
 
郊外地域においては、市街地ではないエリアで、無計画に建てられた住居が今後空き家化、空き地化、放置化された土地がまだら状に点在することになり、人口密度が低下していくのである。
土地の安い市街地外で建物が無計画に乱立することで、市街地の人口も減り、全体として人口密度が低下するのだ。
そうなると、行政サービスが非効率化し、高コスト体質になる。
当然自治体も企業もコスト増となり維持管理できなくなるため、商業施設や公共公益施設の統廃合や公共交通網の縮小ということが今後起こってくるのだ。
こうした事態を起こしている要因として、規制緩和がされた市街地化調整区域に、デベロッパーが次々と建設を行っている点と、自治体側は、人口を増やしたい一心で人口増加主義に陥り、思考停止状態にすらある点とがある。
もちろん、将来を見据えて改善・努力をしている自治体も紹介されているが、全体としてこうした問題があるのだ。
特に郊外の場合空き家が増えれば治安が悪くなり、あるいは不審火による火災など、地域に大きなダメージを与えることにもなる。
当然、その地域では資産価値としても決して高いものではないだろう。
 
 
本書ではこうしたことを取り上げ、著者自身の経験や担当者レベルの話を紹介したりしていて、とても濃い内容で問題が語られている。
これまでの旧態依然とした増分主義に基づく様々な政策や思考が、いかに今現在の事態を招いているのか、その結果これから起こる、あるいはもうすでに起こっている問題を紹介し、いかに減分主義の視点で物事を最適化していくのか、ということをとてもプロフェッショナルに書かれているのだ。
 
言いっぱなしにならないように提言を添えているのが誠実であり、かつ、この問題と向き合っている各方面の方々へのメッセージにもなっている。
それはもちろん、これから住宅購入を考えている我々一人一人へのメッセージでもあるのだ。
 
自由な市場経済は健全ではあるが、行き過ぎると時として暴力的にすらなる。
資本主義の限界というのは今に言われ始めたわけではないが、こうした経済性だけはなく、そこで暮らしていく人々の営みを考え、持続可能で最適な運用ができるよう、思慮と計画性を持たなければいけないのではないか。
そのためには、民間と行政が一体となって、将来を見据えた現実的な解を探す必要がある。
日本では将来の明るい展望が共有できないまま閉塞感が漂っているともう何年言われ続けてきただろう。そうしているうちに、トランプ政権が誕生し、国際事情は不透明さを増すばかりだ。
中も外も常に不透明ではあるが、その中で確かなのは日本の人口が確実に減少するということだ。
それに対応するためには、様々な仕組みを変えていかなければならないはずだ。
そんな簡単なことは誰もが分かっているのだろう。
そしてそれがどんなに大変なことなのかも。
そうした中で、気づけばあっという間に地域崩壊に繋がりかねない危険が迫っているのであれば、知らなかったで済まされない事だ。
これは一人でも多くの人が知っていて良い問題だと思う。
 
興味が湧いた方は、是非一読してみては如何でしょう。