過ぎ行く日々を少しでも。

日々の色々を記録していくトコロ。

内向的な人のためのスタンフォード流ピンポイント人脈術

"日頃から自分の小さな感情の一つ一つと向き合う訓練をしていると、「好き」に敏感になれます。それが「ピンポイント人脈」において最も重要な要素です。"
 

 

内向的だから手にとってみた。
 
SNSの力によって個人の活動領域が昔より広がってきたことで、色々な機会が目の前には広がっている。この事は、これまでの人との出会い方や付き合い方が大きく変わってきたということでもあり、とにかく色んな人と知り合いになろう!という「人脈モンスター」や体育会系的な人付き合いは過去のものとなったか、限定された範囲での交流形態となった。今では、興味のある特定の個人や、共通の趣味を持っている人たちと、個別につながりやすくなっている。僕はほとんどそうした経験がないけど、少なくとも世の中はそうらしい。
そこで重要になってくるのは、「好き」という感覚だと、著者は言う。
これは、自分の感情に素直に、自然になるということだろう。「この人好きだなぁ」という人と、つながっていけばいいのだ、ということを言っている。
注意として、いまの組織内においては、「好き」と思える人以外ともある程度接点があるのだから、そうも言っていられない現実がある。
そのため、ここで言う人脈は、組織の外の話が主だ。
 
というか、そもそも人付き合いというのは、嫌いな人と一緒にいることはほとんど限定的な状況ではないのだろうか。組織内、つまり仕事での付き合いを外すのであるならば、それは自分の興味関心が引かれるプライベートの話であり、そこで嫌いな人と付き合うことはない。そこでの人間関係構築は、そもそも自分が好きなことの土台なのだから、そこで親しくなる人というのも、自然と好きな人になるのは必然ではないか。
 
要は、穿った見方をすれば、体育会系が苦手な文系で意識高い系の人間が、(SNSを活用しつつ)人とつながる際には、「好き」という点を重視して、そこで役立つかもしれないtipをいくつか書いている。
前提として、意識高い=自分のやりたいことや夢、あるいは情熱をかけていることを持っている、そういう人が、個人の能力を高める循環の燃料として、「好き」を掲げて進みましょう!と言っているのだ。
 
なんか感想を書いていくとどんどんザラついた感想になっていくな。。
例えば著者の「好き」の深堀りでも書かれていれば、もう少し好意的に読めたかもしれない。
 
好きなサンドイッチの具で選ぼう、「Yes,But」のTipの体験談はまぁ面白かったかな。

自省録

"君の指導理性はいかに自分を用いているか。この一時に万事がある。その他の事は君の自由意志の下にあろうとなかろうと、死と煙に過ぎない。"

自省録 (岩波文庫)

自省録 (岩波文庫)

 

 

金言に溢れた本だった。少しずつ読み進め、読み終えた頃には付箋やドックイヤーだらけの本になっていた笑
自省録を読もうと思ったきっかけは、NHK Eテレの「100de名著」だ。たまにこの番組を見るのだが、早くからその反響はネットを通じて目にしていた。
番組の解説員に、「嫌われる勇気」で著名な岸見一郎氏が出ていることも興味を引き、その本が好きな妻も、この番組を通して自省録に興味が湧いた一人だ。

読んだ感想として、自分の本分を全うすることを重視し、他人のことをあれこれ考えることで自分を消費するな、ということが繰り返し書かれている。今も昔も、悩みのタネは人間関係であることが伺い知れるが、そういった事柄一切は主観からくるものであり、そうした主観は捨てよと言っている。大切なのは、公共福祉を目的として理性的人間として己の指導理性に従い、本分を全うし、いつ死んでも良いような日々を過ごすこと、といったことが書かれているように思う。哲学者になりたかったものの、皇帝の座につかざるを得ず、書斎人になること叶わず政治と戦の日々を送っていた。裏切りにあったり、更には妻や子供をなくしたりと、悲痛な経験をいくつも持っているが、それらに負けず己の務めを果たしたのだ。その彼を支え続けたものはなにか、挫けそうな精神を、ストア哲学の教えからくる考えを、備忘録的に日々記し、自分に言い聞かせていた、そんな姿がこの本から想像できる。

訳者の神谷氏が、ストア哲学についてうまく言っている。

不幸や誘惑に対する抵抗力を養うには良い。我々の義務を果たさせる力とはなろう。しかしこれは我々の内に新しい生命を沸き上がらせるていのものではない。我らの生活内容豊富にし、われらの生活肯定力を充実し又は旺盛にするものではない。そういう力の泉となるには、全人格の重心のありかを根底から覆し、置き換えるような契機を与えるものが必要である。それはストア哲学にはない。

そして、こう続けるのだ。

しかしこのストア思想も、いちどマルクスの魂に乗り移ると、何と言う魅力と生命とを帯びることであろう。それは彼がこの思想を持って生きたからである。

あくまで人間らしい心情と弱点を備えた人間が、その感じやすさ、傷つきやすさのゆえになお一層切実に絶えず新たに不動心(アタラクシアー)に救いを求めて前進していく、その姿の赤裸々な、生き生きとした記録がこの自省録なのである。

見事なまとめだなと思う。

確かに、僕はマルクスのような偉人ではない。しかし、同じ人間だ。だから、僕にもその心構えは学ぶことができる。
自分が弱ったとき、しっかりと自分の足で立てなくなりそうなとき、自省録の言葉を思い出したい。そう思わせてくれる本だった。

やさしい人

 “あなたの最大の課題は、「他人からの承認」より、自分の本性を選ぶことである。"

やさしい人(愛蔵版)

やさしい人(愛蔵版)

 

 

『「やさしさ」と「冷たさ」の心理』の隣に置いてあり、一緒に購入した本。
書かれたのは『「やさしさ」と「冷たさ」の心理』より一年前だったようだ。この本にあった著者のプロフィールを読んで気づいたのだが、テレフォン人生相談のパーソナリティだと驚いた。
よく会社の先輩がオフィスで、あるいは車の中で、この番組を聞いていた。なかなかの相談内容が毎回登場し、ワイドショーよろしく人様の苦労をネタにしながら時に笑い時に関心し、という楽しみ方をしている先輩を見て、俗物というか下衆いというか、そんな言葉が頭をよぎったのを覚えている。
人の苦労話を聞いて何になるのか、という綺麗事を言う立場であったが、かといってそれを先輩にぶつけるようなことも、聞くのを拒否することもなく、関心を惹かれたのも事実なので、まあ僕も同じ仲間であるのだ。
 
話がそれた。
著者が書く内容は、基本的なところは同じである。自己実現ができない人が、色々な(心理的)苦労を背負っている。その苦労の根源には、どのような心理があるかという分析だ。そして、自己実現できている人というのは、やさしい人、という結論である。つまり、自分にとって何が大事であるかを知っている人であり、他人に本当の意味でやさしくできる、心の余裕を持った人、大人の人間である。
では自己実現に悩む人はどうすれば良いのか?
その第一歩は、自分の本性を知ることである。
自分の喜びが何であるかを知ることだ。
自分にとっての自然が何であるかを知ることだ。
これは、自省録で語られている、"自分の本分"について通ずる部分があるなぁ、と読んでいて思ったり。
 
結構近いところにやさしい人、いるなぁ、とちょっと思った。
僕も見習おう。

「やさしさ」と「冷たさ」の心理

 

"目的とすべきことは、一人でも生きることが楽しめる人になることである”

 

 

なんとなく、自分に響く分析が書かれている本である。
本屋の棚にディスプレイされているのを手に取り、パラパラとページをめくり、気になった本書。
分析、というのも、本書は「交流分析」という聞き慣れない心理療法の視点から、親と子を基礎とした人間関係における”心の健康”に関して述べられた本だ。
 
交流分析とは何か。グーグル先生に聞くと、以下だという。
 
交流分析とは、アメリカの精神科医エリック・バーン(E.Berne)が考案した理論体系で、1950年代から発達してきた心理療法のひとつです。 交流分析は自分自身のことや、人と人との間で何が起こっているのかを知りたい人に役立ちます。
 
読んでいると、家庭環境の話が重点的に出てくるので、フロイト的なアプローチが基礎にあるのだなぁ、ということが伝わってくる。つまり、僕的理解でいうと、自我形成の原因は親との関係に求めることができ、自分の様々な心の動きはそこから説明がつく、というものだ。
 
自己評価が割と低い僕にとっては、程度の差はあれど、ここで述べられているような分析は、なるほどと頷ける内容のものが多く、客観的な分析としては面白いものだった。そして心がぞわぞわした笑
 
人と親密になることに対する恐怖感の心理だったり、相手の好意を確認する行為であったり、自分に対する罪の意識であったり、等々だ。どれも自分に当てはまる!というわけではないが、ただ、書かれていることの程度の違いで、なんとなく自分にも重なる部分があるようにも思えるのだ。
そしてこれらは、自分に自信がないこと、すなわち不安を抱えていることの裏返しの結果であるように思う。自己実現ができている人は、親しい人にもNOと言えるし、自分のことを大切にできている。
僕は、相手を優先して考えてしまいがちである。それは、他人よりも自分を軽んじることをしがちであり、自分を大切にしきれていないということを示している。
自分を大切にしてこそ、相手を大切にすることができる。言葉では分かっていても、これがなかなか難しい。これはそうした教育を受けたからだろうか?
我慢することを美徳とし、義務を果たして権利を主張するべし、というように教えられてきた。
それが、本書で「抑圧」に該当したのだろうか。
ただ、良い子でなければいけない、というのは、あったのかもしれない。
 
自分の過去を掘っていく、というのは楽しい作業ではない。
ここで自分の過去を掘っていくことはやめておくが、書かれている分析を読んで不快にいる方も、心がえぐられる方もいるのではないだろうか。
断定口調で本書は書かれているので、自分と深く同一視してしまうと、ダメージを受けるかもしれない。
あくまでこれは一つの見方なのだということを頭に入れて読む必要があると思う。
 
自分に注意を向ける、という意味で、この本を読んで見るのはありだろう。
少なくとも僕は、最近自己分析の領域にいるので、一つの分析として本書を読めてよかったと思っている。

insight

"自己認識とは、要するに、自分自身のことを明確に理解する力 ー 自分とは何者であり、他人からどう見られ、いかに世界へ適合しているかを理解する能力だ。"

insight(インサイト)――いまの自分を正しく知り、仕事と人生を劇的に変える自己認識の力

insight(インサイト)――いまの自分を正しく知り、仕事と人生を劇的に変える自己認識の力

 

 

 

面白かった。今の自分が求めているような本だ。俯瞰的に自分を見る方法に関して、様々な"気づき"が含まれている。

日本ラグビーフットボール協会で、「コーチングのコーチング」をやっているという監修者のあとがきに、4つの問いが書かれている。これに対する自分の考えを書く形で、insightに関する今の自分なりの考えを記録しておこう。

 

そもそも、自己認識とは一体何なのか?

自分の像を内からも外からも客観的に見ることができる認識能力のことだと思う。そして、それをある程度説明できることも含まれる。

本書でも言っているように、自分で思う自分(内的自己認識)と、他人から思われている自分(外的自己認識)というものを、それぞれ適切に認識することができることが問われる。そもそも、人間の心というものは、首尾一貫を生涯渡って通す人というのは稀であるかほとんどいないと思っていて、良くも悪くも移ろいやすい。そうした、変化してしまうところ、変化しずらいコアのところ、これを見定めること。そしてそれを含めて自分の像を認識しているこが自己認識で、そしてそれを説明できることも重要だ。

 

自己認識が高いとどのようなメリットがあるのか?

自分を知っているから、知らないよりかは自分の行動や反応をコントロールしやすくなるし、それによって出来事に対する自分の反応を調整することもできるだろうし、他人との交流においても、互いが影響する作用の調整がしやすくなる。なぜなら、自分の言動に自覚的なので、自分の振る舞いをコントロールできるし、それによって心が乱れることが少なくなるだろう。無駄に自分の否定もしなくなる。また、自分をよく知っているということは、相手のこともよく知っている(あるいは知ることができる)ということに通じると思うので、相手への理解が結果的に高まると思う。これは生きていく上で必要な能力だと思う。人は一人では生きられないし、人と人との関係の中で生きているのだから、相手を少しでも理解する、ということは重要なことだと思うからだ。

 

自己認識を高めるには、どうすればよいのか?

常に自分の言動を分析すること。そして、人からフィードバックをもらうこと。そうすることで、自分で思う自分と、他人から思われる自分と、双方の視点を磨くことができると思う。

 

いま、なぜ、自己認識が重要なのか?

2つの理由が考えられる。1つは、SNSの発展だ。自己表現が世の中に溢れて久しいが、他人の人生と自分の人生を簡単に比較してしまえるような時代だ。そうする必要がないはずなのに、SNSでは日々、承認欲求から生ずる何がしかのアピールが跋扈しており、意識的にも無意識的にも、競ったり羨んだり妬んだりと、感情が刺激される。それに疲れて平穏を求めた人々が、自分の内側を見つめる旅を必要としているのかもしれない。そしてもう一つの理由が、変化が激しいこの時代だ。価値観が変化していく中で、何が正しいのか、自分なりの真理を求めている人が増えているのかもしれない。だからこそ、疑いのないような自己(なんかデカルトっぽい言い回し、、)、というものを掴み取り、その変化に負けず生きていきたい、そうした願望があるのかも、と思える。というか、自分がそう思うのだ。

 

 

そしてその他に重要だと思っていることは、自分と世界との関わりを説明できるようになりたい、ということ。

世界と言っても大げさなことではなく、仕事にける自分とか、家族や友人など身の回りの世界とのことで、自分がそうした世界にどういった影響を相互に与えあっているか、というのを意識していたいと思う。まぁ、日々そんなことは全く考えていない、考えられていないのだけど。。

 

そもそも、随分昔に、友人が自己分析を深くやって洞察を得た、そしてそれは苦しいものだった、ということを話を聞き、実際にそいつは変わっていった。そうしたことを目の当たりにして、当時の僕は「じゃあ俺も!」というのは、ちょっと違うと思ったし、そいつのように強烈に変わりたい、という願望もなかった。しかし、それから年月が経った今、僕はこのまま惰性で生きていくことに結局のところ抵抗感を覚えている。そうして最近色々もがいていていて、そのもがきは本当にささやかなものではあるけれど、こうした本に辿り着いているわけだ。

あいつの言っていた合言葉。それを胸に、ちょっと前に進んでみよう。(なんかポエムちっくになってしまった。。!)

 

天気の子

"世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから"

 

天気の子、観てきました。

 

前作「君の名は」に引き続きRADWIMPSが主題歌を担当しているこの作品。「愛にできることはまだあるかい」というフレーズはCMでよく耳にしていた方も多いハズ。

愛と天気と子供がどう関係するんだろう、そんなことを思いながら鑑賞した結果、受け止めるのがなかなか難しい鑑賞体験でした。そのため、ポジティブ視点とネガティブ視点に区別して、観想をつらつら書いてみました。

 

まずは、なるべくネタバレを避けてポジティブな視点で語ってみると。

さすが新海監督、美しく色彩豊かに東京都心と雨とを描き、たまに陽が指す描写は街がキラキラと反射し、覗き見る青空とともに軽やかな気分が漂う、そんなシーンがスクリーンに広がる。おなじみの各社商品パッケージが日常シーンに少しのリアリティを添え、それぞれの事情は抱えながらも、基本的には純粋な登場人物は画面に清々しさを運んでくれる。

まだ大人ではない、でも思春期真っ只中で早く自立したい少年少女が、自分たちの力で生きていこうとする様は、ネオンと人の欲望がうごめく新宿の街と対比され、健全な輝きを放っている。とはいっても子供だけ生活するには手段が非常に限られていることも事実で、本人たちの思いとは反比例して、色んな生き辛さがそこには描かれている。

(この点については、少年少女の視点からみたら、とても窮屈に思えるだろうけど、大人の視点からみたら必要な制限であり、社会的に守られているとも見て取れる訳だが)

そうした生き辛さや理不尽さに反抗し、少年は少女への愛 (と呼ぶにはまだ不確かだと思え恋心と言ってもいいと思うのだけど、時として状況がそれを育むように、困難がそれを愛へと変えるのならば、ここではそれを愛と呼ぼう、みたいな。) を示す。

僕は良くも悪くも大人な考えに染まっているので、彼らの青さっていうのは、「青いな〜」とも思ってしまうが、それを描くことにより意図してるであろう「ひたむきさ」というのは分からんでもないし、好きな子がなんでそんなことにならなきゃいけないんだ、という怒りやそれによる行動っていうのは、正に「愛にできること」の一つではある。

少女か世界か、という王道の選択が提示され、少女のいる世界で共に生きていく、という、これまた王道だが普遍的なストーリーを描いている。それでも、大丈夫。世界が変わっても人々はそこに適応して逞しく生きていくし、その選択は自分で思うほど他人は気にしていない。罪悪感を抱えるのではなく、その選択をした勇気と生きていく力、をしっかりと抱えて、新しい世界を歩きだそう。

そうしたポジティブなメッセージがそこには見れる。

しかーし、なかなか受け止めるのが難しい点が多数あるのも事実で、次はネガティブな視点で列挙したい。

ネタバレ含むのでこの先はご注意を。。

 

まず最初に言いたい。昭和か!

いや、映画なのだから、色々突っ込みどころがあったとしても、いちいち揚げ足取ったりなんだりするのは無粋だとおもっている。それらは全部飲みこんで、世界観を楽しもう、そう僕だって思う。しかし、こうちょくちょく気になるポイントがでてくると、おちおち世界に入り込むことができない。ずっと世界に入れてくれない。スクリーンと心の距離がどんどん離れてく。

で、何が昭和か、ってのは主に以下のポイント。

  • リーゼント刑事。リーゼントの時点でお察しだが、ヘアスタイルはそれぞれの好みだ、良しとしよう。主人公の男の子、帆高が補導されパトカーの後部座席でヒロンである陽菜のとある事実を知るのだが、それについて帆高が涙するシーン。助手席にいるリーゼント刑事が、「めんどくせぇなぁ..」とつぶやく。このセリフに隠されているのは、少年少女の事情を色々察して人情味を漂わせそれを抑えて仕事をしなければいけない、という、なんか漫画的な熱血的なソレである。昭和か!
  • 須賀の事務所で働く女子大生の夏美。警察署から逃げ出してきた帆高をナイスタイミングでカブによりピックアップ後、ルパン三世の不二子並に街中を逃走し、挙げ句水上をカブで走り帆高を逃がす。その背中にこう叫ぶのだ。「帆高、走れー!」昭和か!
  • 帆高が銃を構えて止めに来た須賀と対峙する。そして警察も追いつき、銃を捨てて逃げた帆高をリーゼント刑事がお縄にするのだが、須賀はそいつを殴り帆高を逃がす。帆高は陽菜に会いたい、会わせてくれ!という気持ちと、須賀は亡くした妻への気持ちが重なる点、そして刑事が抵抗する帆高を抑えつける点に、感情的になり、まさかのリーゼント刑事を殴り、帆高を逃がそうとする。突然の熱血!最初から止めるな!昭和か!
  • 銃を捨てて丸腰の高校生帆高が逃げ出すわけだが、彼に向かって、もう一人の老刑事が銃を構えて止まれて叫ぶ。アクション映画の観過ぎじゃ!丸腰の高校生に銃を向け続ける刑事て!アクションシーンはまだ続く!?昭和の刑事ものってこんな感じなの?とりあえず昭和か!

他にも細々と、納得できないシーンはある。

  • 帆高にしても陽菜にしても、島から出たい背景とか、自分たちだけで生きていくんだ、そうしなければいけない背景とか、一切説明がない。自分達だけで生きていきたい、思春期の危うい少年少女の純粋な気持ちがそこにあるのだ、としてそこはぐっと受け止めたけど、なんでそこは省いたんですかね。
  • 最初に出てくる、鳥居をくぐりながらお願いするシーンは、そもそも鳥居の前で停まるか、鳥居をくぐってから手を合わせるかが普通だから不自然に見える。
  • 神宮の花火は夜の町並みを上空からドローンのように滑空し、花火の中を通っているのはきれいだが、どこまでも花火はついてくるので、普通に街中いたるところで花火があがっている感じになるし、それってもはや神宮花火ではない。
  • 島から出てきた純朴な少年が、新宿で手にした銃をお守りがわりにずっと持っている。なんじゃそりゃ!

 先にも言ったとおり、世界観はそのまま受け取りたい。しかし、細かいところで気になってしまうのは性分なのだろうか。結局、細かいところにリアリティがでると思っているので、こうした甘々な部分が多ければ多いほど、白けてしまう。本当に細かくて些細なところではあるのだけど、僕にとっては手を抜いてほしくないところだった。

なので、結局のところ世界に入って行けず、「あーはいはい、音楽効果的に使っとけば感性刺激してそれっぽく受けての気持ちを高められるよねー」とか思っちゃう。

もーほんと、青臭く昭和的な。昭和を令和でやる、だから一周回って新鮮。だから「愛にできること」も新鮮に蘇ってくる!とか、なんだか一人で腐ってた。

 

前作のキャラ使ってファンサービスなのかなんなのか、新海ワールドを不必要に見せられている感じにもなり、もうそんな色々な要素で、オナニー見せられている感じすらあったのは、きっと僕だけなんでしょう。

こうした青くささってのが、もう僕には失われた感覚であって、それが必要だった、あるいは現在真っ最中の思春期の子どもたちには、ぐっとくるものがあるのかもしれない。

であるならば、一つ言いたいのは、警察を扱ったシーンについてはコメディタッチがすぎるんじゃなかろうか。

丸腰の高校生に銃を向けてカタルシスを煽るのは、間違ったメッセージをそこに含めないですかね。

つまり、欲望のために純粋になることは、たとえ警察だろうがなんだろうが、それを乗り越えて是になるのだ、みたいな。

この世界は狂ってるんだから、自分と信じたものだけ信じて生きていけばいいのだ、というメッセージは、とても危ういメッセージが含まれているんだと僕は思うんですけどね。特に多感な世代には。

 

ということで、なんとも受け止めるのが難しい映画でした。

ヒエッ

前回書いた「迷いを断つためのストア哲学」についてのこぼれ話。

 

僕が読み終わった本のカバーを見た妻が一言、「迷いがあるのね」と言った。

「最近悩んでてさ」

僕はそう言いながら、気分転換に散歩がてらコンビニへと彼女を誘いつつ、本の内容を簡単に説明した。

勿論、片道では言い切れない。

コンビニでビールとチューハイを掴み、妻の好きなグミをかごに入れ、会計を済ませる。

帰り道、話を再開しながら、足元で何かが動くのを彼女は見つけた。

セミの幼虫だ。

僕はそれを初めてみた。抜け殻になる前の、動く姿を。

地面から出てきたであろう幼虫は、ナウシカ王蟲の赤ちゃんのようにも見え、一所懸命に前に進んでいる。

うわー!と思った感情はすぐに消え、前へ前へと生きようとしている姿を見ると、不思議と、頑張れ、といった気持ちが湧いてくる。

そんな不思議な光景を後にしながら、中断された話は再開される。

そして、ストイックにいくとなると、自分のやるべき事に時間を費やすことになるので、例えばこうした二人の時間は減るかもしれない、というようなことを言う。

そうすると妻はすぐに反応した。

「それって、私との二人の時間よりも、つまり家庭よりも、勉強のほうが優先順位が上にある、ってことだよね」

そして僕は自らの軽率な発言を悔いるのだ。

それと同時に、彼女の直感力というものが鋭いことに驚く。

女性がそういうものなのだろうか。自分が蔑ろにされると感じてしまうのか、あるいは常に自分が一番でないと耐えられないのか。

そこにはプライドが絡んでいるのかもしれない。

ここで断っておきたいのは、妻は多くのことで寛容だし理解がある女性だということだ。

苦労をかけるようなことがあっても、文句を言いながら、あるいは文句もいわず、お互い協力し合う信頼関係が築けている。そしてそれは当たり前のことだとも思い合っている。

そうではない、すれ違ってしまう家庭は、結構あるんじゃなかろうか。

そう思えばこそ、僕は感謝の念を覚えるのだ。

話を戻そう。妻は鋭く迅速に彼女にとっての問題点を直感した。

そう言われてしまうと、もう僕はしどろもどろだ。

結局の所、本気で詰めてくるようなことはしないので、僕はヒエッとしてその話は終わるだけではあるのだけども。

 

さて、僕が言いたいのは、何が大切かということを常に思い返さないといけない、ということだ。

不安や焦りに囚われて、本当の目的を失ってしまうことがある。そういうときは、得てして視野が狭くなっていたりするもものだ。

大切なものほど、気づかなかったり、あぐらをかいていると、ちょっとしたことで崩れ落ちたりする、そういう脆さが実はあるんだということは、過去に学んできたつもりだ。

それでも、僕は愚かで、そうした心配が消え去ると、安定していると、ついついそうした大切なことを忘れてしまう。

僕にとって大事なことはなにか、ということを再度考えさせてくれた、そいういう夜だった。

あのセミの幼虫が、これからその殻を破って、その短い命を燃やし尽くすように、僕は僕が大切だと思えるものを忘れずに、古い殻を破って、自分の世界を広げたい。

そんなことを思った。