過ぎ行く日々を少しでも。

嬉しいこと楽しいこと悲しいこと腹立たしいこと。日々の記憶を少しでも紡げる様に。

ぼうっとする

ぼうっとする事は嫌いではない。むしろ好きだ。

ぼうっとするには、場所を選ぶ。

家でぼうっとすることは、無いとは言い切れないが、するなら外でするに限る。

外ならどこでもいい、というわけではない。

広くて、人がすくなくて、爽やかな場所が良い。

開放的で、雑音が少なく、気持ちのよいところが良いとも言い換えられる。

これまでの経験からいくと、大きな公園、山、海、ゲレンデ、あたりが良い。

ゲレンデはあまり日常的でないし、山に登るのも日常的とは言い難いから、公園か海辺ということになる。

公園と言っても、色々ある。

僕が好きなのは、緑が多く、鳥のさえずりが聞こえるような場所だ。

風を肌で感じながら、頭に浮かんでくる事を静かに考えることができる。

数少ない体験だが、そのうち内側から活力が湧いてくるということもある。

それは場所と状況によるだろう。滅多にないことだから。

そういうところで、ぼうっとするのが好きだ。

住む場所にもよるが、海辺もおすすめだ。

砂浜に腰を下ろし、波の音を聞きながら、遠い地平線に目をやる。

緑に囲まれた環境とは異なり、考え事というのが波の音とともに次第になくなっていく。

まるで返す波にさらわれていく砂のように、さらさらと頭の中の思考が何もなくなり、空っぽになる。

ふと、自分には深刻な悩みなんて無いのではないか、という気持ちになる。

あるいは、本当に考えていることというものが無いのではないか、と思えてくる。

次第に思考も気持ちもさらさらと空っぽになり、平らになっていく。

これは不思議な経験である。

緑に囲まれた環境でぼうっとすることは、物思いにふけったり、少々の自然を感じることで、活力を得たりするといった、再帰的な一面がある。

一方、海辺でぼうっとするのは、思考も感情もリセットするような、浄化的な一面がある。

あくまで個人的な感触なので、人によっては違うのかもしれない。

そもそも、ぼうっとするようなことが性に合わない人もいるだろう。

僕自身、いつもぼうっとしているわけでもないし、ぼうっとした時に、いつでも上で書いたような効果が得られる、というわけでもない。

ただ、うまくぼうっとできたときは、なんだかちょっと贅沢な時間を過ごした感じになる。

だから、ぼうっとすることが好きなのだ。

考えてもらいたい時

どうにも困る人がいる。

比較的年長であり、キャリアも上ではあるのだけど、性格が天然なのか考えが掴めないことがあったり、一方で杓子定規的で文書主義でもあり、頭の固いところもある。思い込みも激しく、自己主張が強いところもある。

こうした厄介な面を持たれている先輩がいるのだが、仕事も遅く、何かにつけてずっと悩んで進まない、ということもたまにある。

例えば今日、何か1つの問題があってそれに答えを出さないといけない事があった際に、何が問題でどんなことが考えられ、何が回答として考えられるか、といったような時、僕は前提知識がある分野だからというのもあるのだが、すぐに答えにたどり着く事ができたのだけど、その先輩といえば、そもそも問題の把握が適切ではないので、モノの捉え方が違う事で全く違う点からアプローチしようとしていたのだ。

最初から答えはこれ、といっても本人のためにならない(と思っている)ので、まずは何が問題であるかをもう一度考えてもらい、考えられる回答の可能性を探ってもらおうとしたのだが、結局は中々正しい問題認識が得られず、答えを提示することになった。

この時の僕は、きっと傲慢で嫌な奴に見られていただろう。

僕としては、問題把握の違いに気づいて、かつ答えへのアプローチについて、一度考えて頂きたい、と思うのだ。勿論、アプローチは人それぞれのやり方があるのだが、少なくともスタート地点が大きくズレているのはまずい。

これ一回きりではなく、他にもスタート地点が違うことで色々とあるから、言わないといけないのだ。

 

こうした時に、上手く伝えられるようになりたい。そんなことを思う、今日この頃。

 

やりたいことと物欲の関係

明けましておめでとうございます。

2018年戌年の始まりです。みなさまはどのような正月を送られているでしょうか。

僕はというと、晦日の頃から今日に至るまで、何か取り憑かれたようにネット上の情報を集めています。

何の情報かというと、やりたい事ができるハードウェア環境、ですね。

一体何を言っているのか、というのを順に追って説明しましょう。

正月早々、単なる煩悩まみれの記事なのであしからず!

 

そう思った背景:そろそろPC環境を刷新したい

まず、誰しもが思うかもしれませんが、新しい年は何がしたい、というような希望的思考が湧いてくるじゃないですか。

僕はもともと映像制作が好きで、いや映像といっても映画のようにかっこよく作品作りというのではないのですけど、古くは3DCGをShadeというツールを使って、まだMacが今ほど有名ではなかった頃に、モデリングをしてレンダリングして画面内で動かす、ということが好きでした。

今ではもう3DCGをやることはないのだけど、一眼レフの動画で動画を編集してテキストやエフェクトをかけて、ちょっとしたムービーを作る、っていうのが一事ライフワークのようになっていて、友人たちと旅行に行っては動画を作って、バラエティ番組のようにテロップまでつけて、あるいは水曜どうでしょう風の作風に仕上げたり、はたまた結婚式での生い立ち動画など、主には身内で楽しむように動画編集と付き合っていました。

僕の使っている環境はもう10年近く前のiMacで、Final Cut Expressを使って編集しているのだけど、何せ CPUはceleron ,メモリは増設しても4GB と非常に非力で、動画編集自体とても時間のかかる作業であるのに、それに輪をかけて時間がかかる作業になります。より良い環境を知らないので、そんなものか、と思う程度に幸せではあったのだけれど、最近妻が新しいノートパソコンを購入し、その過程で仕入れた最近のPC動向が、この幸せワールドを崩壊させたのです。

つまり、そろそろPC環境を刷新してサクサクになりたい!という欲望が入り口にありました。

 

何をしたいか:やっぱり動画をやりたい。もっと快適にかつナイスに。

単純にPC環境を刷新したいというのもありますが、それだけではあまり価値がない。というのも、前述のように動画編集自体とても時間を要するもので、そうした時間も情熱も失いつつあった最近なので、動画編集しないことと、Appleのサポート外環境(これもいろいろ不都合多い)さえ目をつむれば、特に大きな価値は生まれない。いや、実際iPhoneiOSのバージョンとリンクできなくなったので実害はあったのではあるけれど、それでもMacBook Airに頼るなどして、まだ我慢はできていた。

ここで、人間の脳というのは幻想を生み出すもので、"新しいPCがあれば、動画編集が最新のトレンドを取り入れてより快適になる"、という誘惑と戦うことになるのです。

更に重要なのは、"ナイス"に。

現在の時代遅れの環境だとエフェクトいろいろかけると出力にかなりの時間がかかるので現実的ではなかったのだけど、最新の環境であればあんなことやこんなこともできるようになる、よって出力動画は今と比較して"ナイス"になる。いやー、誘惑されます。

一方、単純に僕のアイデンティティの中に映像製作、というのはある程度組み込まれていて、一方で昨今趣味を謳歌できているか、と問われるとクエッションである虚しさを感じていることもあり、やっぱり映像作りたいよね!ってのは欲望として消えてない、というか欲しているのかなぁと思うので、動画作りする環境が欲しいと思う次第なのです。

 

現実的な選択肢は何か:(今の心の傾きは)iMac、ミラーレス一眼

上2つは割りと早い段階で出ていたのですけど、そこからの道のりが険しい。というかここの情報収集が、冒頭の時間の使い方、という訳でもあるのですけれども。

錆びついた僕の知識は綺麗に忘れて、最近の動向を調べていると情報量に圧倒される。

まずMacにするかWindowsにするか、そもそも動画編集のソフトは何にするか、このあたりでだいぶ時間を使った。

そのあたり調べている内に、カラーグレーディングについて興味が湧いて、Blackmagic Pocket Cinema Cameraとかいう面白そうなカメラを知り、手持ちの一眼レフももう長いので、そろそろ4Kも対応していてカラグレできるカメラも一緒に欲しいなぁ、動画撮影するのに手ぶれ吸収するジンバル欲しいなぁとか、欲が止まらなくなって。

頭のなかでハード・ソフト、メリット・デメリット、それらの色んなパターンを検討しながら情報を集めて肚に落とし込んでいく作業が、この年末年始の時間にぶち当たってしまった、ということ。

一気にグレードアップになるので、果たして本当に僕に必要なスペック/選択なのか、とか色々考えたりもするけど、ざっと組み合わせても良いお値段するんですよね、当たり前ですけど。

じゃあそれをパーっと買うか!という懐事情もないわけで、完全に、取らぬ狸の皮算用状態。。

ただ、いまいまの感じだと、iMacとミラーレス一眼+ジンバル、という組み合わせが僕にとっては良さそうかなぁ。

 

しかし、やりたい気持ちが先にあって計画しているのか、あるいはまず物欲があって、その新しいモノからできるコト、にやりたい気持ちが乗ったのか、という問が生まれる。

今回の場合、調べていったらやりたいイメージがムクムク強くなっていき、元々の気持ちにどんどん補強されていった形だけど、それは買い物ハイのような、ドーパミンが出ている一時的な刺激に過ぎなかったりしないのだろうか、という怖さはある。

だからこそ大きな買い物の前は、一度距離を置いて冷静になって考えてみる、それは本当にいるものなのか?と問いかけてみる、などの生活の智慧があったりするわけだけど、自己実現のために必要な投資、という言葉にすり替えると、脳は簡単に騙されてしまったりする。

例えば、ついに買ったはいいが、購入前はやると思っていたことが、実はそんなにやらなかったり、というパターンもあったりする。これは物欲が満たされて満足してしまったケースだ。

願望と物欲というのは、とても強力な組み合わせであるとともに、良くも悪くも時として理性の力を弱める危険な組み合わせでもあるのだろう。

これってとっても子供チックなことだと思うけど、その純粋性ゆえに大人でも誘惑される組み合わせだよね。

 

新年から、やりたい事とできる事を考えつつも、己の欲と現実とに向き合う僕なのでした。

来て知る

ネットだけでは分からない、聞いてる話だけでは分からない、自分で見てみないと分からない、ということは大いにある。

トランプがエルサレムを首都として承認したことで話題のイスラエルという国もその一つだ。

遠い世界の話のようにニュースは流れていき、パレスチナとかガザ地区というのは昔ニュースでよく目にしたし夜に空爆されている映像も目にした記憶がある。

そういうのもあって、危険な地域、危険な国だというのが認識に先に立つし、いつも争いの種が尽きない印象であった。

実際に争いの種は尽きなくその種はエルサレムであるのだけど、エルサレムがどういった歴史的経緯や象徴であるかもよく理解していなかったし、実際複雑である。

でも、ひょんなことからイスラエル商都テルアビブに行くことがあり、現地の様子を少しだけ伺い知ることができた。

テルアビブという都市がイスラエルの中で最も発達した経済の場所なので、特異性を持っている感はあるのだが、夜中歩いていても全く安全だし、生活に困ることはないし、食事のクオリティは高いし、宗教性は低い地域だ。

移民の国で色んな人がいるし、何より美人が多い。金髪白人からオリエンタル系までスタイル含めて見飽きるほどの色んな美人さんが街を歩いる。

何この天国。

ほんと、来て自分の目でみてみないと分からないことだらけだ。(なんの話だったっけ?)

 

 

 

 

 

 

動機と同期

これって埋もれないもんだなぁって思う。

僕らが、これがいい!とか、これが懐メロ!とか、とうしいうものが時代感があるように、君らが思う同じ感覚というのは、同じモノではないし同じものであってはいけないし。

だから、〇〇を埋めろっていうことは、いまの時流を知っていなければ埋められない。

そして、書いたようで書いていないここからの本文が全て消えたことに対して、デジタルに対応して人は諦めが早くなったことを感じ、それに対して反抗してほしいいという勝手な願望。

ほんとどうでもいい更新なのかもしれないけれど、そんなことは無いはず。

消えたことはホントであっで、消えたという事象はどうだっていい。

もうだめだ、この記事つまらないわ。

自己完結オツ以上のことはない。

 

音楽聞いていたら本人ハッピー、現実クズ、なるほどアルアルなんですね。

 

一部に限ります。

なんでもないこと

日常はつまらない。

日々時間は過ぎていく。暇であっても忙しくあっても、時間が変わらず過ぎていく。

そのことに慣れていると心もつまらなくなりがち。

抑揚が無く感情の起伏も小さくなりがちで、妙に空しくなる。

小さな不満を溜め込むのは毒だ。

誰もが意識的に溜め込むことは良しとしないけれど、日常は幸せで満ちているなんてことはそうそうないのだから、多かれ少なかれ不満は日々募っていくのだ。

でも、ちょっとしたことで日々のそうした曇り空は、一時的にもクリアになる。そう、ほんの一時的ではあるけれど。

アプローチは様々だ。

僕自身、最近は灰色な日々を送っていたけれど、ふと音楽を聴くと気持ちが軽くなる。

ウィスキーを口にすれば、心が軽やかになる。

小さな気分転換でしかない。

でもこの小さな気分転換が、どんなに大きなことかは、本人にしか分からないだろう。

それでいいのだ。

しかし、僕の音楽inputの無頓着は隔世の感があるかもしれない。

もうちょっとシーンを気にしないと、ガラパゴスの世界になってしまう。なーんて思ったりする。

牛乳石鹸

 今話題のやつ、見てみた。

 

さてこれをどう見るか。

  • バスを使った電車通勤、少し郊外のマンションか。
  • 妻は朝にジャケットらしきものを羽織っている、共働きか。
  • 会社ではちょっと頼れる?先輩の立場、資料のレビューをする
  • 昼休みにプレゼントを買いに行くマメさ。
  • 上司にミスを怒られている後輩を見て、夜に慰めるため呑みに誘う。
  • 父親ガテン系?キャッチボールする時間はなく1人壁へボールを投げていた。
  • 呑みに行く前に、ケーキは買ってある。無料で2時間のドライアイスの線を考えると、1時間程度呑んで、1時間程度の通勤時間か。
  • このあたりから考えると、おそらく帰宅が20時あるいは21時だろうか。食卓は飾られたまま、妻もすっかり着替えてしまった様子はないし、子供はまだ元気に起きている。

このあたりから推測できるのは、若干イラッとした気持ちから出てきた、ちょっとした反抗心、だろう。

主人公が呟く「家族想いの優しいパパ」と「あの頃の親父」というキーワード。

ステレオタイプ的に言えば、前者は妻の頼みをよく聞く、物分りの良い旦那であり、後者は亭主関白、にあたるのではないだろうか。つまり、発言の軸が妻にあるのか、夫にあるのか。

そんな今と昔を比べて、腹立たしさを覚えたのではないだろうか。

最初は妻に対して、そのうち自分に対して。

 

いつからこんな、反発することもなく妻の言うことをただ受け入れてしまうような「優しいパパ」になったのか。そして妻からのお叱りの言葉。

「ちょっと風呂入ってくる」

風呂につかりながらこう思う。

"親父が与えてくれたもの、俺は与えてあげられているのかな"

牛乳石鹸でほぐれた気持ち。

そして息子の誕生日会は始まる。

 

これはむしろ、父親はこうした気持ちを持っているんだぜ、という母親へのメッセージなのかもしれない。

ちょっとは俺の気持ちにも気づいてよ、牛乳石鹸のように、お互いのイライラはさっと洗い流しちゃおうよ、って。

 

違う客観視をすると。

男性側の言い分は分かる。ゴミ捨てするのは当たり前、思いつきのように用事を頼み、断るすきを与えない、いや当たり前にやってもらえるもの、という頼み方。

都合よく使われている感に男性は自尊心を傷つけられるし、そもそも誕生日当日になぜこうなった、という話もある。

女性側の立場としては、共働きだとして、料理は作るし他の家事だってしているのだから、それくらいやってくれていいでしょう、という意見だろうか。それも分かる。

このギャップを埋めるのは、日々お互い会話をすることだし、家事へのイライラをためないような素の話を少しでもできるか、できているか、だろう。

我が家は比較的に精神年齢が低いので、イライラをそんなに持ち越すことなく楽しくやっている、って言えるところがあるから、まだ幸せなのかも、って思う。

 

色んな物議が巻き起こっているけど、分断を深めるだけのネタにするのではなく、お互い話せるネタになると良いよね。