過ぎ行く日々を少しでも。

日々の色々を記録していくトコロ。

logの価値

「あぁ、そういうことあった。
 そうだったなぁ。
 あれはこの頃の事だったか」

 

自分のブログを読み返していると当時のことを思い出す。
読むまではすっかりそんなこと忘れていた。
あの時あんなことがあったこと、あの苦労があった事、考えてたことや読んでいた本などなど。

遠く昔の自分が、彼方へ放った記録が、ひょんなことから自分に届く時がやってくる。

だからblogは面白いのだよな、と思い出した。
そして、その発見の度に毎回思っている。本質的に自分はずっと変わっていない、変わらない、と。
ずっと成長していないような気さえしてくる。
それは、ずっと自分が思う出来ていないことにばかり焦点を当てるからだろう。
自分を認めてあげる、褒めてあげるということがなかなか出来ない。
出来ていないことを言う方が簡単だから、そっちが先に出てくる。

この思考パターンを変えられれば良いのだけどね。

当時もがいていた自分の片鱗を少しキャッチできた。
そして今もまたもがいている自分がいる。そして当時よりもちょっとだけ深刻な気がする。
でも大丈夫。乗り越えられる。

また書いていこう。

お金って

何だろう。

という疑問を、とあるパプアニューギニアの地域で使われる「貝殻」の貨幣から考えてみる、というラジオを面白く聴いた。

なにその古代www とか思うかもしれないけど、その地域は植民地でもあったから、つまり歴史的にも先進国による貨幣経済が根付いた暮らしをしていて、国の通貨もありそれで回る経済のインフラも持っている。それに加えて、昔ながらの貝殻貨幣が「いまでも」共存できている、のだから面白い。そこには共同体と個人の結びつきと、それにより得られる「生きる目的」というものを感じるようで、奥深いお話であった。

すごく簡単に言うと、「タブ」と呼ばれる貝殻通貨は、単に「モノ」と交換可能な価値をもつのではなく、「人」そして「共同体」との繋がりをも象徴するものになっている。その最たる事例として、人が死んだとき、参列者が故人へ捧げる「タブ」で作られる輪っかがあり、その大きやさ数の多さで、故人がいかに立派であったかを示すことになったり、あるいは故人が貯めた「タブ」が参列者に配られ、その量が多ければ多いほど、立派な人であった、とされるようなのだ。タブは単に交換可能な貨幣だけの意味ではなく、共同体におけるある種の証のようなものを持っている。

これはまさに村社会のコミュニティのようであるが、そこには共同体が育んできた文化があり、貝殻という象徴がシステムに組み込まれて機能しているのが面白い。

 

日本では何のために働くのか、何のために生きるのか、それはお金のためなのか、という虚しい問いかけへの答えがパリッと出てこないように思えるのは、一つ、共同体という概念が薄まったからなのかもしれない、と思うのだ。核家族が進み少子高齢化社会を突き進んで久しく、人口減少が進み無理難題が続くからこそ、ますます共同体を意識した共生が必要になるのではと思いつつも、一方で個人化は進みそれぞれの自由を謳歌しその中から創られていく可能性や未来もあるのだろうとも思う。楽観的に考えればそのなかから新たな共同体の形というものが誕生するのかもしれないし、悲観的に考えればみなが自分のことばかり考えてバラバラになる、というものかもしれない。

 

ちょっと話が脱線してしまったのだけど、つまり僕が思う「お金」と、パプアニューギニアの人が思う「お金」というものは結構違うのだな、ということが知れて面白かった。

目の前のこと

ふと思ったこととして、自分は目の前のことに意識の集中をしてそこに意識が張り付くなーと。物事との距離感が近くなる。それで疲れてしまう。

もっと引いてみること、距離を取ることをしてみる、というのは以前してみてはいるけれど、気づけば距離は近くなっていて。これは自分の特性なのかなぁ。

目の前のことに集中する強み、と言い換えてみる。

目線をもっと遠いところにピントを合わせるのが不得意で、目の前にピントが合い続けている。遠いところを見ていても、すぐに目の前にピントが戻ってしまう。

それが特性、なんだろう。

その特性を、どう使うか、どう活かすか、だよな。

1%の努力

世界で人々の暮らしを見て、人と話をしても、やはり毎回思うことは同じで、「一生懸命に生きなくても大丈夫」という結論に落ち着く。

 

 

ひろゆき氏の本。積ん読状態にあって、ようやく読んだ。

とても淡々と、かつ素朴なまでに自分の考えを披露している。

自身の生まれ育った環境とそこで培った価値観の基礎、が根底にあり、その後経験を通して磨かれたスキルがあり、ひろゆき流「どう生きるか」が書かれている。

あっと今に読めてしまった。

読んだ感想として、視野が広いな、というのと、客観的な分析力が高い人だな、という印象だ。

人物としては有名なお方なので紹介するまでもないけど、様々な発言の元になる思考はこういうところにあったのか、と思う。

感覚として、一生懸命生きなくても大丈夫、というのを持っているのは強い。

僕なんかはどうも一生懸命になってしまいがちで、それによって視野が狭くなるし短期的な行動になりがちだと思う。とっても働きアリ的な動きをしている。

しかし最近それに疲れたし、これをずっと続けたいとも思わないし、何なら新しい環境に身を置きたいとすら思っている。

そういう時にこういう本を読むと、肩の力が少し抜けるというか、もっと一生懸命にならないやり方もあるのではないか、と思えてくる。

取り入れたいと思えるものは試してみたい。

例えば、1日スマホも財布も持たず外で過ごす、というのは面白そうだ。

自分の中の、生きるチカラ、というものをもっと自覚していきたい、そう思わされる本だったな。

 

忙しさ

ここ最近忙しい。

所属部門の全体として多数重たい仕事が続いており、私が担当する仕事も重たいもの。上司はあれこれてんてこ舞い。

重責かかる仕事なので気持ち的にも結構タフ。

ここで改めて感じるのが、仕事の責任の重さ、というものについて考えるし、自分の仕事のやり方としてあれこれ考え不安になったときの気持ちの切り替えが下手だと思うし、忙しさによって気持ちが焦って心の余裕がなくなるし、プレッシャー下における思考の渋滞と後ろ向きな考え、というところがあるなと思うし、とにかく自分のできていないところに目が向きがちである。

忙しさ、と一言にいっても、自らが作り出している忙しさ、というのは実は多いのではないか、と思うのだ。

そういう虚像の忙しさ、というものを無くしたいと思う今日このごろ。

小さなプライド

突然だけど、プライドってなんだろう?

自分の中のこだわり、譲れないもの、かな。

 

例えば何かをやるときに、自分が良いと思っているやり方があって、他の人からそれを批難されたらプライドが傷つく。

あるいは何かを選択するときに、自分の譲れないものがあって、それを選択した際、反対されてもそれを変えないのも、プライドがあるから。

 

そうすると、自分が良いと思っているものでも、相手の意見を取り入れて変える、というのは妥協、になってくるのだろうか。自分のやり方を貫くか、状況に合わせるか。

しかし注意しなければいけないのは、自分が良いと思っていたことが本当に良いことなのだろうか、という視点だ。

相手の意見を取り入れてより良くする、ということは当然あるわけで、それは妥協ではなく改善だったり前進だったりする。

そうすると、自分のプライドを守ろうとしている事や状況が、はたしてそれがどこまで適切なのだろうか、と自分自身に懐疑の目を向ける必要が時としてあるのだ。

これはとても辛いことだ。信じる強度が強ければ強いほど、それは信念とも呼べるものにもなるので、よく見極めないといけない。

 

プライドを守る、あるいは貫く。

それが必要な場面を区別する力が必要だと、そんなことをふと思った。

心の扉

自分ってどんな人?

割と面倒な人かもしれない。こじれた人?

積極的に心の内を開けることは苦手で、心のプライベートゾーンを守りたがる。ずけずけと入ってほしくないところがあって。

自分のことを簡単に分かられてたまるか、と思う一方で、自分のことを分かってほしい、と思う自分もいて。

これって、自分のありのままを受け入れてほしい、という願望なんだろうな。

そしてありのままを見せる勇気がないだけ。ありのままを見せて傷つきたくない、という防衛本能が先に働く。傷つくのなら、そもそも見せたくない、となる。

まあきっと珍しくない話だろう。

相手の扉を開けるなら、まずは自分の扉を開けないと、というのがよく言う話で。

それをやらないから、相手にも理解してもらえない、ということだよね。

 

他方で、自分のペースっていうのが大事で、人に崩されたくない、っていうのもある。

心を開けたことが、相手に合わせる、ということではない。中には同化を求める人もいて、だから面倒なので距離を置くようにしている、のかもしれない。

しかしここで、同化を求められている、と感じているのは僕の主観か?実はそんなことないのかもしれない?ここは僕の共感力の話になってくるなぁ。

 

これは僕の弱さだな。勇気のなさ、と言ってもいい。

ここまで書いて、「嫌われる勇気」の本を思い出した。前に読んで内容を忘れてしまったけど、このテーマに適した内容だったように記憶している。

もう一度読んでみてもいいかも。