首相談話と丸山眞男の「日本の思想」
戦後70年という節目にどのような談話を出すのか話題が絶えませんでしたが、昨日発表されましたね。
かねてより「未来志向に」と語られていたように、過去の過ちを認め見つめつつも、繰り返し要求される謝罪の外交的圧力に一線を引き、今後の未来に向けたメッセージを発しているように受け取れます。
批判的な意見の中には謝罪のための主語・主体性がない、という風なことも見られます。
戦後世代として主体性に欠けると見る向きもあるのかもしれない。それが誠実に見えないのかもしれません。
それでも僕個人としては、戦争への反省はもちろん件の慰安婦問題に対するメッセージも含まれ、過去の過ちをを抱えつつも平和への活動と貢献を謳うこのメッセージを支持します。
「謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」
この一節は、素直に、よく言ってくれたと思うから。
もちろん被害者の方々を軽視するわけではありませんし、居直っているわけでもありません。
しかし今後未来永劫、常に謝罪の言葉を発していなければならないのでしょうか。
こんなことを言うとお叱りをうけるかもしれません。
被害者の方々の心情は想像するに余りあるからです。
ところで、最近丸山眞男氏の「日本の思想」という本を読みました。
ここでは氏の視点から語られる、日本の思想に関する興味深い考察があります。
読んでいて今日においても示唆に富んでいると感じるは古典の風格であり、また当時と比較してもそんなに進歩していないのかもしれない、という思いに駆られるのは皮肉なばかりです。
本書ではマルクス哲学を知ったときの日本の思想界が受けた衝撃を紹介し、日本における思想の無構造さと雑居性について、その知的風土や当時の様子を交えて語られます。
このなかで、談話とその周辺に関連した要素に通じる視点がいくつかあります。
その中から以下3つについて、更なる長文を以って続けたいと思います。
(書いていたら駄文が駄文を呼び、話がところどころ飛ぶような状態になってしまいました。。)
1.謝罪の要求について
これは国の話でもあり、個人の話でもあります。
外交手段の意味合いもあるでしょう。
更なる経済的補償の要求の意味合いもあるかもしれません。
しかし根本的なところには、儒教的な道徳が根付いているのかもしれないと思うのです。
というのも、本書の"「である」ことと「する」こと" という章で、前者は儒教的社会において身分的な属性が支配的であり儒教的道徳が求められるという点と、後者は欧米社会のように現実として何を実践しているか、端的に言えば結果が重要視される社会であるという指摘があります。
「である」的立場から見れば、過去日本軍に酷いことをされたのだから、日本は私達の負った傷に対して常に繊細な配慮を失わず、お詫びの念を示し続けるのが当然のことだ、という考えがあるのではないでしょうか。
それは、「加害者」と「被害者」という属性に分かれ、「被害者」に与えられた権利である、というものかもしれません。
そしてその「被害者」という属性が長く大きく鎮座していることで、時代を経るについれ政治的な意味合いも帯びて今日に至るような気がします。
日本の戦後賠償は終了しているはずですが、この儒教的道徳観において事を継続たらしめているように思えます。
この道徳的責任について、どのような区切りをつけられるのか、またつけるべきではないのか、という話については、冒頭でも述べたように、安倍さんの一節を支持したいのです。
まず本書からの引用です。
理論信仰の発生は制度の物神化と精神構造的に対応している。ちょうど近代日本が制度あるいは「メカニズム」をその創造の源泉としての精神 ーー自由な主体が厳密な方法的自覚にたって、対象を概念的に整序し、不断の検証を通じてこれを再構成してゆく精神 ーーからではなく、既成品としてうけとってきたこととパラレルに、ここではともすれば、現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。それによって理論や概念はフィクションとしての意味を失ってかえって一種の現実に転化してしまう。
上記の引用は、民主主義は不断の実行により支えられると語れれる一方で、理論だけが先行しひとり歩きすることで、抽象化、いわゆるイメージが定着し大きくなると不動化し、現実がイメージに取って代わられるという点を指摘しています。
これは憲法をはじめとしてルールが触れてはいけないタブー化することで、あたかもそこに書いてある規則が最も大事であることになる。
憲法が大事であることには違いないのだけど、僕達日本国民が不断の努力によって平和を築いていくことが最も大事であることは揺るがないものだと思います。
「だからこそ、戦争ができるようになる安保法案に反対するのだ」
そんな声が聞こえてきます。
原発のない社会、攻めこまれた時だけ抵抗する(あるいはそれすらも放棄する)平和な社会。
でも待って欲しい。
原発がないことで火力発電の必要が増加し石油の輸入にますます頼っていることは周知の通りだと思います。エネルギーは日々暮らす上での根幹をなすものです。
ではその石油はどこから仕入れるのかというと、中東からです。
シーレーンという言葉を聞いたことがあると思いますが、特定のルートを経由して石油は日本へ運ばれてきます。そのルートが危険に晒されれば、石油は手に入らず、4割とも言われる石油からのエネルギーを得られず、結果として僕らの命は危険に晒されるかもしれません。
そんな危険があるのか?
検索すればすぐ出てきますが、中国が南シナ海で軍事施設を建造しているのです。
このことが、石油の輸入ルート上で運送のリスクが高まるのです。
簡単にいえば、中国の軍事施設が完成し海上封鎖でもした日には、前述のように日本はエネルギー源の一部を失い、それが継続すれば危機的状況になり得るのです。
「それは外交努力で解決すればいいじゃないか」
やってるけど中国はやめませんよね。(やめたというニュースもありますが、本当にやめたのかどうしても疑ってしまう、、)
「だからって戦争をしかけるのか」
まず、僕たちの命はどうなるんでしょうか。蛇口をひねれば出るはずの水が、手前の隣家の住人が水道管を斧で切断し、我が家だけ水がこなくなったとき、そのまま脱水症状で事切れるのを待つべきなのでしょうか。
声をあげて近所の人に訴えれば解決するでしょうか。もしかしたら解決するかもしれませんし、無視するかもしれません。どちらにしろ、結果が出るまで受け身でありつつ、その間次々と死者が出るかもしれません。
でも、最後に自分を守れるのは自分だけです。
その最終手段として、裸で直訴するよりも、装備品を付けて隣家へ直訴した方が効果的ではないでしょうか。だって相手は言ってもやめないし水道管切断しちゃう人です。
でも、僕自身「装備品をつけて直訴する」というのが、現実的にどのような行動になるのかがわからないのです。だから不安になるのでしょう。
ここで必要なのは、覚悟かもしれません。
理不尽さに対峙するときの覚悟。自分を守ると決める時の覚悟。
しかし、くどいようですが戦争は絶対繰り返してはいけない過ちです。
そんな覚悟は御免被りたいのが正直なところです。
徴兵なんてされたくないから全力で戦争には反対です。
一方で、自国の平和と世界の平和のために、これからも安心できる日常を享受できるように、現実に則した検証と再構成は必要になる場面はあるのだと思います。
アメリカの軍事費削減による日本の役割増加、テロをはじめとした国際社会における協調のための外交的圧力、中国の脅威への対応、等々、外部的理由は色々とありますが、とにかくいま享受できている日常が武力的な理由で脅かされることがないよう、そのために何が必要であるか、あるいはどう変わっていくべきか(変わらないべきか)、引き続き考えていかなければいけないのだと思います。
まとまりのない文章ですが、このまとまらない考えが安保理に対する正直な反応です。
戦争は反対だけどこのままでは自国が危険に晒されるのではないか。
今日の国際情勢の不安定さが、そうした懸念を駆り立てるのです。
ちなみに石油に関してはこの本も読んだことが影響していますね。
結局、世界は「石油」で動いている (青春新書インテリジェンス)
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3. 批判について
こちらもまずは本書内の引用から
ところが、実践(実感!)に対するコンプレックスの形であれば、あるいは理論の物神化の形であれ、理論が現実と同じ次元に立って競争するような知的風土では、(中略)自己の依拠する理論的立場が本来現実をトータルに把握する、また把握し得るものだというところから責任の限定がなくなり、無限の現実に対する無限の責任の建前は、実際には逆に自己の学説に対する理論的無責任となってあらわれ、しかもなお悪い場合にはそれがあいまいなヒューマニズム感情によって中和されて鋭く意識に上らないという始末に困ることになる。
批判する側にも責任が伴うということを肝に銘ずる一節です。
対象を批判し、かつ自身が展開する理論の原理主義者に陥れば、それは無限に生産される無責任の声です。
例えば偏った民族主義的な感情は、自分のコンプレックスを覆う衣であるように思えますし、ただ自分の正当性を主張したい、言い換えれば自己承認欲求に塗れた批判の声は、事の本質を脇に置き不毛な言い争いを生むだけのように思えます。
いずれも無責任な主張を生産し続けるだけです。
好きなは好き、嫌なものは嫌だ。
確かに、人間は感情の生き物です。だから、そう主張すること自体は悪いことではないと思いますし、結局はそこに行き着く部分だってあります。だって人間だもの。
でも、お互いを攻撃して疲弊して後には何も残らないのは正に不毛です。
ある考えに対して否定的な考えがあり、それが止揚されるところに生まれるのが更に高次の考えというものです。
本書の言い方で言えば、これは思想の伝統化が成せる技なのでしょう。
丸山氏の言うところでは日本では議論の蓄積が薄く、いつもイロハからはじまってしまう。ヨーロッパのように議論が積み重ねられ思想が発酵し伝統化する土壌がないので、ある考えは空間的配置を変えるだけで、歴史的な構造を持っていない、と指摘しています。
だからこそ、批判の声は反対や否定に終始するだけで、「止揚」に至ることもなく、本来の目的を失った「妥協」が生まれるだけなのかもしれません。
これも、「和を以て貴しと為す」の性なのでしょうか。
単に反射的に批判を繰り返すのではなく、目的を明示した批判をすること、そして受け取った側が真摯に応答なり反論することを建設的に繰り返すことで、高次の姿に変移するのが理想ですよね。
といいつつ、言うは易し行うは難し、というものでしょうか。。
とにかく、現実を無視した理想論に終始した無責任な主張は控えたいものですが、お互い認識している現実と理想が逆だったりするので、両者は平行線だったりするのかもしれません。
少なくとも、歪んだ感情や理論を物神化した考えから主張や批判をするのではなく、客観的な現実認識を持つ努力をしなければいけない、と思う次第なのでした。
以上、まとまりのない駄文でした。