インセンティブ
経済学を扱う本は多い。
本書は、身の回りの出来事を経済学のメガネを通して眺めるあたりは行動経済学の本に近しいが、経済学の本というより、エッセイに近い。
本書は「内なるエコノミスト」という、人が行動を選択する際に耳を傾けるべき内なる声をキーワードにした、氏の洞察を基にした動機付けの解釈だ。
氏の言葉をいくつか抜粋。
市場とインセンティブを何にでも用いれば良いという態度は危険だとする氏の立場。
わたしの同僚で友人でもあり、『隠れた秩序―日常生活の経済学(注:邦題『日常生活を経済学する』)を書いたデヴィッド・フリードマンや、『フェアプレイの経済学』の著者、スティーヴン・ランズバーグは、普遍的な論理づけの手段として経済学を推奨している。そして、インセンティブや市場、財産権といった考え方を、家族や仕事、私的な時間にも応用するよう勧めている。だが、わたしには、二人の助言に同意しかねることが少なくない、聡明であるのは認めるが、誤った経済学者像を人々に与えてしまっているのはないかと心配だ。二人のアプローチでは、日常生活はふつうに考えられているよりも、バナナを買うような単純な話に近いと言っているようにしか聞こえない。「出かけて行って、市場とインセンティブを使え」が、決まり文句だ。こういうアドバイスは、どう考えても危険だ。
以下は納得を以て頷く。
私自身が度々そう陥りがちであるように、不都合な物事が目の前に現れたとき、そしてそれが自信を持って対処できないとき、人は不安になりストレスを感じ、それを判断するのに支えとなるものを求める。自分が見たいように見てしまう自己欺瞞か、他人の意見か、はたまた数の力か。
ストレスを感じた人ほど、大勢の意見になびくものだ。自分の手には負えないと感じているため、集団思考に頼り、周りのお墨付きがあるという安心感に逃げ込む。だから、間違いが起きても責任を感じない。この意味するところはなんだろう。プロジェクトの成否のカギを握る判断をする人に対しては、ストレスをかけていはいけない、ということだ。
どのように達成するか、そのプロセスは大切だ。
でも、プロセスばかりに目を向けて、達成すべきものから目をそらしてはいないだろうか。
人はプロセスを自分で思い通りにできるかどうかばかり気にして、適切な結果が得られるかどうか、さほど気にしていないものだ。
賞罰のインセンティブは、使う場面が適切な場合とそうでない場合がある。
氏は家庭内で賞罰のインセンティブを用いるのは良い案ではないと言う。
インセンティブが本人の自尊心を傷つける、あるいはただの手段に成り代わってしまう。
保育園へ子供を迎えにくる親が遅刻することに罰金を課すること、の事例は有名だ。
ふつうは、他人の行動に影響を与えるために賞罰システムを使う。そして、まさにそのために、当人は主体性を失い、行動の自由がないと感じるのだ。多くの人は、こうした感覚や、感覚を生み出す原因に反発を覚える。だから、インセンティブの効果が上がらず、逆効果にすらなるのだ。
これは耳が痛い。。
何かを決めるということは、選ばなかった何かを諦めるということだ。
もっと良い選択肢があるのではないか、という懸念から決断するリスクを避ける、あるいは、決断することで自由が制限されるという恐れから先送りしてしまう。
本当は、選ばないことで発生するリスクをただ積み重ねているだけなのにも関わらず。
優柔不断で遅れる人もいる。約束までの時間をどう過ごせばいいのか、どの道を行こうか、約束の時間に着くには何時に家を出ればいいのか。こういったことで悩む人だ。
どうするか決めたら決めたで、目の前の素晴らしい機会を台無しにしたのではないかと考える。彼らにとって何かを決めるのは、悲しむべきことであり、多様な選択肢を否定することなのだ。何かを決めるとは、想像する喜びを奪い、失望しか生まないことになる。
本から得た知識を役立てよう。
本を好きになるのは、著者にしかけるいたずらだと考えたほうがいい。その気になれば、いたずらをしかけ、著者の意図や望ましい読者増を破壊することで喜びが得られる。 著者に背を向け、著者ではなく、自分自身の計画や人生の意義を知るための手立てとして、本を使うことだ。
シグナリングは相手へ無言のメッセージを送る行為だ。
私が何をどうしたか、あるいは何をどうしないかで、相手に届くメッセージは異なる。
家庭ほどシグナリングが重要な場所はない。家庭では、現金という直接的なインセンティブの役割は限定的で、互を信頼し、協力し合う上で決定的な役割を果たすのはシグナルだ。
シグナリングは例えば保険を例にあげるとこんな感じだ。
保険に入るとは、自分がどんな人間で、何を大切に思っているかという物語に投資することでもある。 昔から保険のセールスマンはよく心得たもので、保険を進める際はそこを巧みについてくる。
保険などの誰かを保護する活動の多くは、"相手を気にかけていることを示す"ためのものだと主張する
一般に、保険は生活の一部だとみなされている。人が保険に入るのは、約束を果たすという忠誠心をシグナルとして示すためだ。 例えば、生命保険に入るのは残された者を気にかけていることを示し、愛情を再確認するためであって、遺族が本当にカネを必要とするからではない。
健康のために運動をする。運動をするためにジムに入る。
ジムにはルームランナーや最新のウエイト器具、プール設備が整っている。
さあ、最初に自分と交わした誓は、時間とともにどうなっただろうか。
当初想像していたほどジムに通っていないかもしれない。
それでもあなたはその誓いを尊重し、ジム退会をしばらく保留するかもしれない。
ジムに支払う費用は月いくらだろうか。
かく言う私自身、体験者なのだけれども。
600ドル。これは、運動に関して自分を欺くための代償だと考えればいい。自分をだますというインセンティブ、自分のことを実際以上に良く思いたいというインセンティブがいかに強力かを示す尺度だともいえる。
他人や世間に対して、自分を良く見せたいと思うのは多かれ少なかれ皆持っている感情だろうと思う。
氏の言う自己欺瞞はかなり広範囲に渡るように聞こえるけど、それを自己欺瞞と呼ぶのなら、自己欺瞞だって必要だ。
事実はどうあれ、自分を高く評価している人の方が、大きな仕事を成し遂げるものだ。自分に自信があるので、積極的にリスクを取ろうとする。
他人に忠誠を要求するのが苦にならない。自分を偽ることによって、脇道にそれないで済む。
いい食事をしたいとか、地位が欲しいとか、セックスがしたいとか、人間が生物として数少ない大きな目的を達成しようとするなら、自己欺瞞は進化した防御システムなのかもしれない。このシステムがあるからこそ不安になったり、気が散ったり、目標を見失ったりしないのだから。
勝海舟は言った。
「行いは俺のもの、批判は他人のもの。俺の知ったことではない。」
こう強く生きられれば良いが、そうとも行かない。
自己欺瞞は必要なのだ。
人がまがりなりにも人生をまっとうできるのは、他人に見られ、評価され、値踏みされ、さらには避難されているという事実をたえず無視しているからだ。行く先々で、他人にどう見られているかがわかれば、身が持たないという人がほとんどではないだろうか。
能力主義を標榜する資本主義経済では、業績が悪かったとき、同じ言い訳はしない。うまくいかなかったときには、良くも悪くも、競争相手より劣っていたのだと思うように仕向けられている。自分のためになる物語を強化するには、自分を欺くに越したことはない。
こうした場面は日常の中で普通にある。
不安やおそれをコントロールできれば良いのだけれど、、
人間は、自分に関係のないことに関しては、合理的な選択ができるようだ。わが身に降りかかることだと、不安やおそれが理性を追い出してしまうのだ。
多かれ少なかれある自己欺瞞とどう付き合うか。
自己欺瞞には様々な欠点があるが、それでも人の美徳を支えている。
慈善活動を含めて人の善行のほとんどは、それ自体が目的なのではない。
定期的な関わりと自分を律するというプロセスが楽しのだ。それでも人は、やっていることよりも、目的自体が大事なのだと自分を欺く。
エクササイズであれ、チャリティーであれ、同じことだ。
人は自分のことを、本来よりも上等な人間だと思い込んでいる。
だが、この幻想は、ある程度までは自己実現できる予言だ。自分自身を言行が一致した寛容な人だと言えるなら、それに越したことはない。
氏は最後にこう結ぶ。
内なるエコノミストとは、結局のところその人の価値観なのだ。
自分の内なる声を聞き、数ある選択肢の中から何を選び、どのように行動し、社会とどう関わっていくか。
文明の未来の基礎になるのは、謙虚さ、自己反省、高尚な価値観への信頼、日常における叡智である。できるだけ多くを手に入れることでもないし、できるだけ早く手に入れることでもない。文化が市場に頼ることが多いように、市場もまた文化的な基礎を必要としている。「内なるエコノミスト」は、実用的なアドバイスの源泉であると同時に、より大きな構図の中で、社会秩序を支えるのに役立つものでもある。一見すると、この本は日常生活について述べてきたと思えるかもしれないが、根底では自由な社会を維持し、拡大することについて述べているのである。
本書にある氏の視点を参考に、自分の選択と行動を観察してみてはどうだろう。