過ぎ行く日々を少しでも。

日々の色々を記録していくトコロ。

前々日

前回の面談からだいぶ時間は経ち、僕の新たなチャレンジ先は決まった。

ただ、僕の直接のボスとのコンタクトはまだで、もうほとんど時間はないのだけど、まだ来月のスケジュールというか身の振り方が決まっていない。

僕的には、後任の方も随分先まではプライベートに入っており、僕自身が抱えている仕事をリリースできず、いくつかの仕事を除いて、受け取ってくれそうな人もいないのだ。

なので移行期間として10月は今の環境にまだ比重を置きたいのだけど、相手先がそれを許してくれるのか、そしてそもそも相手先で僕はどのような扱いになるのか。

不安は尽きない。

そしてそもそもスタートラインとして英語があるのだけど、その基準すら満たしていない。

何もかもが不足しており、僕は必死になってそこをフォローしていかなければいけない。

逆境からのスタート。

 

でも丁度偉い人から話を聞くことがあった。

新しい環境は家庭環境その他の制限がなければ前向きに受けたほうが良いこと、前向きに頑張るべきこと、ゼロリセットせず前の職場のことも活かしていくこと、オーバーリアクトしすぎず、力みすぎすぎないこと、など。

前向きに、オーバーリアクトを抑制した適度な緊張を持って、乗り越えていこう。

 

何でもやることでかえって漠然とした気持ちを漂っていた僕なのだから、フォーカスしていくことに躊躇わず飛び込んでいこう。

 

進め!

 

客観視

上司との中間面談。

上司は僕のことをある程度認めてくれているところが多く、好意的に評価してくれる。
それが実際よりもポジティブに解釈してくれている部分があり、プレッシャーというか、自分の中の実像とのギャップ、あるいは自己卑下的な考えに繋がったり。
そこで、僕自身を客観視した点を挙げていくとこうなる。
 
ネガティブポイント
  1. 自分にイマイチ自信が持てない
  2. 適当、ほどほどな仕事をする
  3. 物事を深掘りせず、表面的になりがち
  4. 必ずしもそうではないが、その場しのぎ、場当たり的な対応をしがち
  5. 人への頼み方や連携が下手。雑だし生意気。
  6. 勉強したことを活かせない。だから自信も付かない。(正確に言うと勉強したことと仕事や日常生活の中で直結する点が少なく、よって記憶が薄れていき活用できないことが多く感じる)
  7. 仕事にムラがある
  8. 物事を先送りにしがち
  9. プレッシャーに弱く、キャパが大きくないため余裕を失いパニクる場面もある
  10. 自分に甘く、惰性で行動しがち
ポジティブポイント
  1. (浅く)広く対応できる
  2. ある程度柔軟性はある
  3. 適度にこなし、ストレスをあまり抱えないようにしている
  4. なんでもやる
  5. 複数のことをそれぞれ優先順位とスピード感を調整しながらこなせる
  6. 楽観的な部分があり、最終的になんとかなるというマインド
 
うーん、ネガティブポイントが多い!
自分を客観視することって難しく、「こうした傾向があるかなぁ」ということでボンヤリしがち。ポジティブポイントも、転じてネガティブポイントにもなるし。
 
自分を変えるのは難しい。
真剣さが僕には不足しているのは、ある程度できていてその先を求めない、深堀をしない、現状に満足している、というのが潜んでいるのだろう。
僕は満足に達する基準値が低いのかもしれない。
それはそれで幸せなことだ。
でも一方で、これで良しとできない自分がいるのは、自分を受け入れていないからなのかも。
しかし、心の片隅ではどこか受け入れている自分がいるような気がする。
でもそれは一部で、全部を受け入れられていない、という中途半端さがあるのかもしれない。
 
自分を受け入れていないことと、自分に満足していないことは、別の事だと思う。
僕の場合は、どちらも当てはまるのだろう。
そこから自己矛盾を感じているのかもしれない。
そしてこれは、きっと誰しもが少なからず抱えていることなのかもいしれない。
 
人は褒めれば伸びるという考えから、もっと自分の良さと強みを発見していこう。
月並みな言い方だけど、もっと自分を好きにならなければ。
 
 
 
 
 
 

首相談話と丸山眞男の「日本の思想」

戦後70年という節目にどのような談話を出すのか話題が絶えませんでしたが、昨日発表されましたね。

www.sankei.com

 

かねてより「未来志向に」と語られていたように、過去の過ちを認め見つめつつも、繰り返し要求される謝罪の外交的圧力に一線を引き、今後の未来に向けたメッセージを発しているように受け取れます。

批判的な意見の中には謝罪のための主語・主体性がない、という風なことも見られます。

戦後世代として主体性に欠けると見る向きもあるのかもしれない。それが誠実に見えないのかもしれません。

それでも僕個人としては、戦争への反省はもちろん件の慰安婦問題に対するメッセージも含まれ、過去の過ちをを抱えつつも平和への活動と貢献を謳うこのメッセージを支持します。

謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」

この一節は、素直に、よく言ってくれたと思うから。

もちろん被害者の方々を軽視するわけではありませんし、居直っているわけでもありません。

しかし今後未来永劫、常に謝罪の言葉を発していなければならないのでしょうか。

こんなことを言うとお叱りをうけるかもしれません。

被害者の方々の心情は想像するに余りあるからです。

 

ところで、最近丸山眞男氏の「日本の思想」という本を読みました。

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 

ここでは氏の視点から語られる、日本の思想に関する興味深い考察があります。

読んでいて今日においても示唆に富んでいると感じるは古典の風格であり、また当時と比較してもそんなに進歩していないのかもしれない、という思いに駆られるのは皮肉なばかりです。

本書ではマルクス哲学を知ったときの日本の思想界が受けた衝撃を紹介し、日本における思想の無構造さと雑居性について、その知的風土や当時の様子を交えて語られます。

 

このなかで、談話とその周辺に関連した要素に通じる視点がいくつかあります。

その中から以下3つについて、更なる長文を以って続けたいと思います。

(書いていたら駄文が駄文を呼び、話がところどころ飛ぶような状態になってしまいました。。)

 

1.謝罪の要求について

これは国の話でもあり、個人の話でもあります。

外交手段の意味合いもあるでしょう。

更なる経済的補償の要求の意味合いもあるかもしれません。

しかし根本的なところには、儒教的な道徳が根付いているのかもしれないと思うのです。

というのも、本書の"「である」ことと「する」こと" という章で、前者は儒教的社会において身分的な属性が支配的であり儒教的道徳が求められるという点と、後者は欧米社会のように現実として何を実践しているか、端的に言えば結果が重要視される社会であるという指摘があります。

「である」的立場から見れば、過去日本軍に酷いことをされたのだから、日本は私達の負った傷に対して常に繊細な配慮を失わず、お詫びの念を示し続けるのが当然のことだ、という考えがあるのではないでしょうか。

それは、「加害者」と「被害者」という属性に分かれ、「被害者」に与えられた権利である、というものかもしれません。

そしてその「被害者」という属性が長く大きく鎮座していることで、時代を経るについれ政治的な意味合いも帯びて今日に至るような気がします。

日本の戦後賠償は終了しているはずですが、この儒教的道徳観において事を継続たらしめているように思えます。

この道徳的責任について、どのような区切りをつけられるのか、またつけるべきではないのか、という話については、冒頭でも述べたように、安倍さんの一節を支持したいのです。

 

 2. 憲法安保理改正について

まず本書からの引用です。

理論信仰の発生は制度の物神化と精神構造的に対応している。ちょうど近代日本が制度あるいは「メカニズム」をその創造の源泉としての精神 ーー自由な主体が厳密な方法的自覚にたって、対象を概念的に整序し、不断の検証を通じてこれを再構成してゆく精神 ーーからではなく、既成品としてうけとってきたこととパラレルに、ここではともすれば、現実からの抽象化作用よりも、抽象化された結果が重視される。それによって理論や概念はフィクションとしての意味を失ってかえって一種の現実に転化してしまう。

上記の引用は、民主主義は不断の実行により支えられると語れれる一方で、理論だけが先行しひとり歩きすることで、抽象化、いわゆるイメージが定着し大きくなると不動化し、現実がイメージに取って代わられるという点を指摘しています。

これは憲法をはじめとしてルールが触れてはいけないタブー化することで、あたかもそこに書いてある規則が最も大事であることになる。

憲法が大事であることには違いないのだけど、僕達日本国民が不断の努力によって平和を築いていくことが最も大事であることは揺るがないものだと思います。

「だからこそ、戦争ができるようになる安保法案に反対するのだ」

そんな声が聞こえてきます。

原発のない社会、攻めこまれた時だけ抵抗する(あるいはそれすらも放棄する)平和な社会。

でも待って欲しい。

原発がないことで火力発電の必要が増加し石油の輸入にますます頼っていることは周知の通りだと思います。エネルギーは日々暮らす上での根幹をなすものです。

ではその石油はどこから仕入れるのかというと、中東からです。

シーレーンという言葉を聞いたことがあると思いますが、特定のルートを経由して石油は日本へ運ばれてきます。そのルートが危険に晒されれば、石油は手に入らず、4割とも言われる石油からのエネルギーを得られず、結果として僕らの命は危険に晒されるかもしれません。

そんな危険があるのか?

検索すればすぐ出てきますが、中国が南シナ海で軍事施設を建造しているのです。

このことが、石油の輸入ルート上で運送のリスクが高まるのです。

簡単にいえば、中国の軍事施設が完成し海上封鎖でもした日には、前述のように日本はエネルギー源の一部を失い、それが継続すれば危機的状況になり得るのです。

「それは外交努力で解決すればいいじゃないか」

やってるけど中国はやめませんよね。(やめたというニュースもありますが、本当にやめたのかどうしても疑ってしまう、、)

「だからって戦争をしかけるのか」

まず、僕たちの命はどうなるんでしょうか。蛇口をひねれば出るはずの水が、手前の隣家の住人が水道管を斧で切断し、我が家だけ水がこなくなったとき、そのまま脱水症状で事切れるのを待つべきなのでしょうか。

声をあげて近所の人に訴えれば解決するでしょうか。もしかしたら解決するかもしれませんし、無視するかもしれません。どちらにしろ、結果が出るまで受け身でありつつ、その間次々と死者が出るかもしれません。

でも、最後に自分を守れるのは自分だけです。

その最終手段として、裸で直訴するよりも、装備品を付けて隣家へ直訴した方が効果的ではないでしょうか。だって相手は言ってもやめないし水道管切断しちゃう人です。

でも、僕自身「装備品をつけて直訴する」というのが、現実的にどのような行動になるのかがわからないのです。だから不安になるのでしょう。

ここで必要なのは、覚悟かもしれません。

理不尽さに対峙するときの覚悟。自分を守ると決める時の覚悟。

 

しかし、くどいようですが戦争は絶対繰り返してはいけない過ちです。

そんな覚悟は御免被りたいのが正直なところです。

徴兵なんてされたくないから全力で戦争には反対です。

 

一方で、自国の平和と世界の平和のために、これからも安心できる日常を享受できるように、現実に則した検証と再構成は必要になる場面はあるのだと思います。

アメリカの軍事費削減による日本の役割増加、テロをはじめとした国際社会における協調のための外交的圧力、中国の脅威への対応、等々、外部的理由は色々とありますが、とにかくいま享受できている日常が武力的な理由で脅かされることがないよう、そのために何が必要であるか、あるいはどう変わっていくべきか(変わらないべきか)、引き続き考えていかなければいけないのだと思います。

まとまりのない文章ですが、このまとまらない考えが安保理に対する正直な反応です。

戦争は反対だけどこのままでは自国が危険に晒されるのではないか。

今日の国際情勢の不安定さが、そうした懸念を駆り立てるのです。

 

ちなみに石油に関してはこの本も読んだことが影響していますね。

 

 

 3. 批判について

こちらもまずは本書内の引用から

ところが、実践(実感!)に対するコンプレックスの形であれば、あるいは理論の物神化の形であれ、理論が現実と同じ次元に立って競争するような知的風土では、(中略)自己の依拠する理論的立場が本来現実をトータルに把握する、また把握し得るものだというところから責任の限定がなくなり、無限の現実に対する無限の責任の建前は、実際には逆に自己の学説に対する理論的無責任となってあらわれ、しかもなお悪い場合にはそれがあいまいなヒューマニズム感情によって中和されて鋭く意識に上らないという始末に困ることになる。

批判する側にも責任が伴うということを肝に銘ずる一節です。

対象を批判し、かつ自身が展開する理論の原理主義者に陥れば、それは無限に生産される無責任の声です。

例えば偏った民族主義的な感情は、自分のコンプレックスを覆う衣であるように思えますし、ただ自分の正当性を主張したい、言い換えれば自己承認欲求に塗れた批判の声は、事の本質を脇に置き不毛な言い争いを生むだけのように思えます。

いずれも無責任な主張を生産し続けるだけです。

好きなは好き、嫌なものは嫌だ。

確かに、人間は感情の生き物です。だから、そう主張すること自体は悪いことではないと思いますし、結局はそこに行き着く部分だってあります。だって人間だもの。

でも、お互いを攻撃して疲弊して後には何も残らないのは正に不毛です。

ところで、本書ではヘーゲル弁証法が意識されています。

ある考えに対して否定的な考えがあり、それが止揚されるところに生まれるのが更に高次の考えというものです。

本書の言い方で言えば、これは思想の伝統化が成せる技なのでしょう。

丸山氏の言うところでは日本では議論の蓄積が薄く、いつもイロハからはじまってしまう。ヨーロッパのように議論が積み重ねられ思想が発酵し伝統化する土壌がないので、ある考えは空間的配置を変えるだけで、歴史的な構造を持っていない、と指摘しています。

だからこそ、批判の声は反対や否定に終始するだけで、「止揚」に至ることもなく、本来の目的を失った「妥協」が生まれるだけなのかもしれません。

これも、「和を以て貴しと為す」の性なのでしょうか。

単に反射的に批判を繰り返すのではなく、目的を明示した批判をすること、そして受け取った側が真摯に応答なり反論することを建設的に繰り返すことで、高次の姿に変移するのが理想ですよね。

といいつつ、言うは易し行うは難し、というものでしょうか。。

とにかく、現実を無視した理想論に終始した無責任な主張は控えたいものですが、お互い認識している現実と理想が逆だったりするので、両者は平行線だったりするのかもしれません。

少なくとも、歪んだ感情や理論を物神化した考えから主張や批判をするのではなく、客観的な現実認識を持つ努力をしなければいけない、と思う次第なのでした。

 

以上、まとまりのない駄文でした。

 

ゼロ秒思考

昨日は大変な雷雨でしたね。

大量の雨で渋谷の駅も水浸しになったみたいで、他でも各地で水浸しの話を聞くほどに、雨の勢いは凄まじい物でした。

僕はビル上層階にいたのだけど、雨の密度が高くて真っ白な景色に見えるほど。

真っ白といえば、たまに人前で話すとあがり症の僕はよく頭が真っ白になります。

そんなとき、タイトルが面白そうだったのでこの本を手にしました。

頭が真っ白になりそうな時、さらりと切り返す話し方

頭が真っ白になりそうな時、さらりと切り返す話し方

 

中身を読んでみるとごく当たり前のことが書かれているので、何かブレイクスルーがあったわけではないのだけど、この本の下地にあるのはゼロ秒思考だということを知り、寄り道ついでにこの本も読んでみました。 

ゼロ秒思考  頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング

ゼロ秒思考 頭がよくなる世界一シンプルなトレーニング

 

 

思いついた疑問や考えをA4ページ1枚1分以内にメモ。これを10ページ毎日続けよ。

本書が言っているのを凝縮すれば、ただそれだけだ。

考えすぎて時間を浪費しても対して質は向上しないし意味が無い。

考えたことを瞬発的にメモしていくことで、自然と考えが整理され前向きになる。

ということらしい。

 

著者は色々と試した結果、A4メモに辿り着いたので、まずはその形式と効用を信じて実践する他ありません。

こういう自己啓発本の実践は三日坊主であることが世間一般的であり僕もそうなのだけど、読んだからにはやりましょう。

 

ふと考えた自分の疑問やアイディアをメモすることは、自分の思考を可視化することにもなるし、書くという行為で記憶の定着にも繋がるものだと考えます。

それを毎日実践することは、その部分の脳機能を活性化させるでしょうし、それが思考力を鍛えることも何となく納得できます。

やってみてまず実感したのは、自分は構造的にものを考えることがちと苦手なのかもな、ということです。

あるテーマを決めた時、それについて箇条書するのだけど、それが同じレベルでまとまらず、一つ下の項目だったり、そこから派生する考えだったり、テーマの下で思考がまとまらない感触です。

要はブレーンストーミングと同じなので、思考を縛らず自由に伸ばしていくことがポイントなのかなぁと思う一方、まとめる力も必要なので、このあたり構造的な思考というのが僕の一つの課題なのかなと。

 

とにかく続けることから始めなければ!

 

 

 

 

決断という技術

 

決断という技術

決断という技術

 

 

柳川さんの本を探してたら本書を見つけた。

胃業界の御三方が対談した内容をまとめたもの。

 

「決断」という言葉には強い力を感じる。強制力というか。

物事に対して覚悟をもって決断するということは、何か絶対的なもの、それを貫き通す意思の存在を示すものであるかのように受け取れる。

でも、そもそもそうじゃないんだと、いかに僕が決断という言葉を神格化しているかをこの本は教えてくれる。

それは自販機で飲み物を決める場面だっていいし、ショートケーキかチョコレートケーキのどちらを選択するかの場面だっていい。

実は決断という行動は日常的にとっている選択のことだ。

当然、個人レベルと組織レベルでそれは違ってくる。

 

組織レベルについて言うと、日本では決断の痕跡を残さないように、責任の所在が明確にならないような、場の空気の決定というものがある。議論を進める中で、どうやって決めるか、誰が決めるかは明確に定まっておらず、時間経過とともにその場の納得感や妥当なラインがなんとなく形成されてきて、どこからか沸き上がってきた空気により物事がきまり進んでいく。

最近の例だと、新国立競技場が良い例だろう。

あんなに大きな案件が、あんなにふわっとした感覚を覚えるのは、空気により物事が進んできたからではないだろうか。

渦中にあった安藤忠雄氏の会見でもリーダー不在の発言もそれを証明している。

案件が大きすぎてどこにも主体性がなく、あえて言えば空気という主体がふわふわと漂い時間経過と共に既成事実化していく。

ある意味、とても日本的な事象なのかもしれない。

それがうまく働く場合と働かない場合があるが、この例では明らかに後者だ。

(行末が非常に気になるが、ここでこの件はあまり立ち入らないことにする)

 

ここで、本書で紹介されている指標の一つとして、KPI(キーパフォーマンスインディケーター)という言葉がある。

KPI 【 Key Performance Indicator 】 重要業績評価指標

キーパフォーマンスインディケーター / キーパフォーマンス指標
KPIとは、目標の達成度合いを計る定量的な指標のこと。目標に向かって日々業務を進めていくにあたり、「何を持って進捗とするのか」を定義するために設定される尺度で、現況を指し示す様々な指標の中から、進捗を表現するのに最も適していると思われるものが選択される。KPIは継続的に測定・監視され、その向上のために日々の活動の改善が行われる。

(e-wordsより:http://e-words.jp/w/KPI.html)

 

 組織として目的のために、定量的に評価できる指標を持つことが大事だという。

これがないことで、精神論や根性論に傾倒していくことで、結果として組織のパフォーマンスが下がることになる、という指摘がある。

個々人では色々な主義主張はあるけれど、チームとしてこれを目的・評価対象としましょう、という共通の指標があれば、その指標が適切であれば適切であるほど、良い結果をもたらすのだろう。

それを前提とすることで、組織として合理的な決断ができるようになるのだ。

 

ではその「決断」自体はどのように行えばいいのだろうか。

プロセスを簡単に区分すると、情報収集・分析、判断、そして決断、というプロセスだ。

特に水野氏は、情報収集・分析、判断が重要だと言う。これを基礎として決断をするわけだから、この部分で努力しなければ、そもそも決断を誤ることになる。

決断自体は、限られた条件や制限下で行われるものであるのだから、その範囲内で努力して決断をすることになる。

そして、状況が変わればまたその時に決断をする。それが繰り返されていくのだ、という。

本書内でも話が出ているように、日本人は正解を求めすぎるという。間違いが怖いから、とにかく正解を欲するのだと。

自分を振り返っても仰るとおり、である。

仕事の場面においても、間違いが怖いから自分で判断するよりも、周りの意見を色々と聞いてしまうことがある。それは結局のところ自分で決断する責任から逃れているだけであって、主体性を放り投げてしまっている。

そうして、結果的に後悔することも多い。なぜなら、正解がない状況において他人に意見を求めれば、当然その当人の考えに基づく答えが返ってくる。

それが一人でなく二人、三人、となっていけば当然違う意見が集まることになる。

しかも、状況が変わればその意見も変わってくる。

結局、そうしたことに翻弄されることになるし、それでは良い仕事はできない。

当たり前のことだけど、自分の頭で考える、これに尽きるのだ。

しかし、こんなに簡単に言っているけれど、それが如何に出来ていないことか。。

 本書でも言っている。 

本当の正解はわからないけど、割りきって自分が正しいと考える答えを選ぶ。

そうした、「正解がない解を自分で選ぶこと」それが出来ないのであれば、そうしたトレーニングを積み重ねていく必要があるのだ。

 

 僕は物事を決める時に何を基準にしているかというと、直感で肌感覚的な部分が大きいように思う。

楽しいこと面白いこと気持良いこと楽なこと良さそうなこと。

こう書くと論理的な考えが出来ていないことを示しているようでお恥ずかしい限りだ。。

また、そうであるからこそ、本書の御三方が言語化して決断の方法について語れる様子は勉強になる。

 

自分の決断を意識化し蓄積すること。

状況に応じて次の決断を行うこと。

そのためには情報収集を欠かさないこと。適切に見直すこと。

決断をしないということは、「決断をしない」という決断をしていること。

決断のクオリティを意識すること。

 

自分と照らし合わせながら、楽しく読めたよ。

ふしぎなイギリス

「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければいけない」

 

ふしぎなイギリス (講談社現代新書)

ふしぎなイギリス (講談社現代新書)

 

 

イギリスの国についてあまり知識は無かったけど、面白く読めた。

 

議会制民主主義の祖であるイギリス。

United Kingdom、日本語訳では「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」だ。

その名が示す通り、イギリスは一つの国というよりも、イングランドスコットランドウェールズ北アイルランドからなる連合国なのだ。

この本を読んで知ったのだけど、もともとイングランドにはケルト系諸部族社会であったのが、5世紀頃にドイツ地方からアングル人、サクソン人(アングルサクソン)が侵入してきた。そしてフランスから来たウィリアム一世、通称イングランド征服王イングランドを武力制圧し、現在のイギリス王室の開祖となったのだ。

このように、そもそもイギリスの歴史は多民族的であり、だからこそ移民や外国企業の経済活動に寛容らしい。

そうしたイギリスという国の成り立ちを、色んな切り口から本書は語っている。

イギリスは立憲君主制であるが、王室の社会的な意味合いや起伏に富む歴史、政治との距離感など、王室がどのようなピンチを迎え、どのように変移していったか、そしてイギリス社会においてどのような存在であるについて紹介してくれる。

政治の面では「鉄の女」と称されたサッチャーや、古いイギリス体質から近代化を推進したブレアらの政策の光と陰、そしてアメリカやEUとの外交について紹介してくれる。

あるいは、ロンドン同時テロやイギリス暴動から見える現代のイギリス社会、ひいてはグローバル社会が抱える課題や、スコットランド独立住民投票を通して見える、連合王国のパッチワーク的な脆さの露呈なども触れている。

 

僕はイギリスへ言ったことはない。イギリスと聞いて思い浮かべるのは、ぬるいビールとフィッシュアンドチップス、ジェントルマンやプレミアムリーグ、あとショーン・コネリーだ。

デイヴィッド・ヒュームとアダム・スミス、J.S.ミルもかな。

 

僕にとってヒュームが妙に印象的なのは、人間は知覚と経験の束であるした主張がある。ヒュームの著書をちゃんと読んだことがないので僕の勝手なイメージではあるのだけど、哲学の中でも「実感的」な主張であり、イギリス経験論と呼ばれる思想の代表格でもある。

「イギリス経験論」と呼ばれる程度に、フランスは理性主義の国で、イギリスは経験主義の国、とも呼ばれるらしい。

だからこそ、経験を重んじるイギリスには文書化された憲法は存在せず、前例や慣習を重んじる伝統が根付き、文書には縛られない柔軟さをイギリス社会は持っている。

伝統という観点から一つ。イギリスの首相は辞任したら国王(現エリザベス女王)に謁見し、それを承認された時から、いわゆる「平民」に戻る。

その様は、ダウニング街10番地の首相官邸兼公邸を公用車で警察の先導を受けバッキンガム宮殿へ行き、宮殿から買える際は自家用車で信号待ちをしながら帰宅する、という点に表される。同じように、新たな首相に任命された人は、逆の流れを辿る。

これが一日で起こるというのがイギリス政治であり慣習であり、現地の人に言わせれば「実にバカげた」不合理な習わしだ。

一方で柔軟さを象徴するエピソードの一つに王室の変化がある。

サッチャーの下、新自由主義政策が進められたイギリスは、財政緊縮による痛みの結果、国民にとって王室は贅沢品であるという意見が広がり、王室の支持率が低下する。

そうした流れにあるなか、ダイアナ元皇太妃の事故死による「ダイアナショック」がイギリス社会を襲うのだが、王室とダイアナ元皇太妃の間には確執があったことで、エリザベル女王はこの事故に対して当初何の動きやコメントもなかった。

これに対して国民の怒りが爆発するのだが、この時の首相であるブレアが女王に助言したことで、史上初めてバッキンガム宮殿に半旗を掲げ、国民の感情に寄り添った。

この経験を活かし、王室は鮮やかに姿勢転換をはかり「開かれた王室」へと変わるのだった。

 

毎日新聞の特派員としてロンドンとワシントンにいた著者は、現地でのエピソードを交えながらも、イギリス社会の歴史と実像を表現豊かな文章で紹介してくれる。

特にワシントン滞在の経験から、イギリスとアメリカの関係性についても紹介されているのが興味深い。

僕自身、イギリスに関する知識は殆ど無いに等しいにも関わらず、著者の豊富な知識と経験から立脚された切り口から解説されるイギリスという国の像について、興味深く、そして楽しく読むことが出来た。

大英帝国の栄光と失敗、その歴史を背景にグローバリゼーションの最先端を走りながら育まれたイギリスが持つソフトパワーや懐の深さ、あるいは直面している構造的な問題について、この一冊で幅広く知ることが出来る。

それと同時に、著者が如何にイギリス社会に惚れているのかも読み取れる。

 

日本社会に目を戻すと、一件イギリスに似た構造を持っている。

王室があり、議会制民主主義であり、規則を重んじる点など。

しかし国の成り立ちも違えば、国民性も違う。

この本を読みながら、日本の政治や社会と比較してみるというのも、この本の読み方の一つだろう。

 

ちなみに、本書で言及がなかったイギリスの「ゼロ時間契約」については筆者はどのように考えているのだろうか。

巻末で、「隣の芝は青い」と語り、イギリスに比べて日本社会においては「クオリティー・オブ・ライフ」の視点が無いと嘆いている。

それに頷きつつも、疑問も残る。

日本の政治に、「生活の質」という視点が抜け落ちている証左に日本の非雇用制度の問題がある、としているが、ではゼロ時間契約についてはどうなのだろうか。

クオリティー・オブ・ライフに憧れながらも、現状から脱せられない構造的問題がいまの日本社会にあるのは事実だろう。

しかしその問題はイギリスも同じではないか。

つまり、上流階級的発想では「生活の質」は大事だが、その基礎として生活の安定がある。

その生活基盤が揺らいでいるのが今日のグローバリゼーションの荒波から生じた格差問題であり、多かれ少なかれどの先進国でも直面している問題だ。

勿論、筆者もこの問題点について本書内では指摘しているのだが、イギリスの雇用面に関して触れられる余白は無かったようだ。

 

ともかく、イギリスという国を知るのに役に立つ本でした。

 

腐れ縁

僕には腐れ縁の友がいる。

学生時代に時を一緒に過ごしたアイツは、先に僕が社会人になり、その後アイツも社会人になった。それも同じ会社で。

僕は技術系の職につき、アイツは営業系の職についた。

それから幾年の月日が経ち、僕は地味で他への持ち出しがあまり効かないような仕事をしている一方、営業職のアイツは業界の知識をはじめとした世間一般的に他でも通じる知識と知恵を蓄えている、

実際のところ、アイツは社内でも買われていて今後期待されている人材の一人だ。

そんな、社内において日陰と日向の関係性がある。

しかし営業職というのは半端無くプレッシャーがかかるし、アイツの仕事は常人では務まらない仕事であると思う。

それをこなしていること自体、一つの驚きに値する。

彼の持つ能力や業績、他者からの評価に対して、僕は素直に凄いなと思うのだ。

 

一方で、自身と比べてしまう自分がいる。

アイツのいる今のポジションはアイツ自身が仕事や自分のやりたいことへの熱意と勉強により築き上げてきたものである。

それに対して僕はどうだ。仕事に対してアイツほどの熱意も持てないというよりも、仕事をこなすことが第一目的にきている。

自分が何をしたいのか、というよりも、仕事を片付けるという意識が優先される。

 

恐らくはそうした意識が普通あるいは大多数の世間なのかもしれない。

好きでやっている仕事というのは、全体からしたらほんの僅かな人数なのかもしれない。

でもアイツの仕事の話を聞く度に、自分のなかで黙殺している部分が疼きだす。

それは去年、苦しんだ後にアクシデントで手放した旅路に通じることであるし、そのキッカケとなったのも実はアイツだ。

 

そうした自分のザワメキに直面したとき、一体自分はどこを目指しているのだろうという疑問が湧くのだ。

 今眼の前のことに一生懸命になること。僕はそう考えたはずだった。

しかし未来への展望を語る人の前で、僕はまだ胸を張ってそうしたことを言えない自分に気がついた。

むしろ、相手が語る現状認識や今後の展望の前に、普段フィールドを異にしている僕としては語るべきことは殆どなかった。

そのことが、悔しいというか虚しかった。

結局のところ、自分がいかに知らないかという劣等感を感じる事になったということだ。

 

今の仕事をしていると、そうした俯瞰的な見方ができなくなってしまうし、そうした見方が必要になる場面がないことで、ますます切り離された世界になってしまう。

 

僕がここで何を言いたいかというと、自分の弱さと未熟さについてだ。

断っておくと、アイツへの憎しみなんて一切ないし、むしろ外的刺激を与えてくれる頼もしい存在だと思っている。

アイツは我が家に久しぶりに格ゲーをしにきて、この格ゲーは学生時代から続いているものなんだけど、本当に腹立たしく下らない内容なんだ。

でも少なからずアイツは僕に対して、いま僕がいるポジションから脱して欲しいと思っているみたいだし、前回そうした協力をしてくれた。流れたけど。

まぁとにかくそうした腐れ縁が僕にはいる。

 

あいつの弱さや未熟さについては僕も承知しているけれど、仕事面に対して僕はほとほとアイツの熱にやられてしまう。そして、それにやられてしまう内は、僕は本当の意味で自分の道を踏みしめていないのかもしれない。

色々な本から得た視点や旅を通した体験を得たとしても、アイツのように仕事に対する情熱の前には、僕の得た知見は前に出ることに怯えてしまうんだ。

こうして僕は僕自身の脆弱性を認識するのだ。

 

アイツに負い目無く仕事の話が出来るようになった時に、僕のこうした負い目は無くなるのだろう。

何やら不健全な感じもするが、僕はこれを乗り越えなければいけないと考えている。

 

他人の土俵で戦わず、僕は僕の土俵で戦わなければいけない。

そして色んな土俵が存在しつつ、一つの社会が成り立っている。

そんなことを思いながら。