過ぎ行く日々を少しでも。

嬉しいこと楽しいこと悲しいこと腹立たしいこと。日々の記憶を少しでも紡げる様に。

規範を持つ

今の自分に満足しているかと聞かれたら、満足はしていないと答えるだろう。

以前から自分自身に確固たる自信というものは持ち合わせていなかったが、一方でひょうひょうとやっているところがあり、状況に適用しながらそこそこやる、ということが強いて言えば長所かな、という自己認識だった。しかし、ここ最近はある種の焦燥感がある。きっかけは、職場で今後リーダーなりより高位の専門職なり、そういったキャリアを求められている方向にあり、自分を立ち返って考えることが増えたからだろう。

今後自分のキャリアを考える中で、自分はこの部署にいてその道を進めていくことでいいのだろうか、それが自分にとって良いことなのだろうか。務まるだろうかという不安や、ストレスが高まるだろいうという予想もあって、そうした将来に悶々とするのだ。

不安の根源としては、今の仕事において、自己解決できる技量が備わっていないことが原因であり、他人に相談する、それ自体は悪いことではないと思うのだが、自己判断が弱い、依存傾向にあると思っていて、それが自分の自身の無さに直結している。

さらに、他の同僚が面倒に巻き込まれているときに、積極的に協力できない場面があったり、むしろ自分のことで精一杯なので、なるべく関わりたくないな、と思ってしまう卑しい気持ちに、自分でげんなりするのだ。

これらの要因は、地道な鍛錬や、精神的な甘さを改め自分に厳しくすること、恐れに打ち克ち真摯さを意識すること、など処置の方法はあるだろう。

しかし、自分の行動や習慣というものを変えるエネルギーがなかなか沸かない、コンフォートゾーンから飛び出す勇気がない、と言えるのだ。

そうした状況が続く故に、自分に満足も自信も得られない。楽を求めることで、自己欺瞞に陥り、内面の暗闇から抜け出せずにいるのだ。

そうした状況を変えたいと思い、本に手を出す。仕事論や自己啓発、伝記のようなものなど。

それらは最もな意見が書かれていて、自分も頑張らねばと思ったのもつかの間、日常に戻ればすっかりこれまでの自分、ということになる。

こうした生産性のないループから脱却するには、規範が必要だと考えた。

自分の行動や考えについて、何かやるとき、判断するときに、この人だったらこうするだろう、といった心の規範になるもの。

もともと他人への興味が薄い僕は、誰かを強く憧れたり、この人のようになりたい、と願えるほど、自分の理想を投影できる人物がいない。

中学生の頃に、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアに尊敬の念を抱いたことはあるし、今でも尊敬はしているものの、こうなりたい!という人物像と言えるかは疑問が残る。社会を変えたい、という方向の行動がしたいわけではない。もちろん、普遍的なものはそこから汲み取ることができるだろうが、もっと親近感というか、共感が得られそうな、直接的で身近な人物が理想ではある。

このあたりが狭い考え方ではあるのだが、日本人にそうした人を見つけたい、という気持ちがある。もちろん、歴史上西洋で尊敬できる人は多数いるが、日本の歴史の中でそうした人物を心に持つことが、グローバル化された今日において、むしろ必要なんじゃないかなと思う。一方で、無理に日本の歴史から探そうとするのも不自然ではあるのだけども。。

ここまで書いていて何だが、今読んでいる本は、今とは違う、「昔の価値観」において立派な人の反省を複数人紹介している。それらは洋書の翻訳なので、全員欧米人であるのだけど、普遍的なものが、そこから見出すことができる。

元来、僕自信は他人によく見せるために演じたり、自分の気持を大っぴらに話したり表現したり、というのは好きではない。むしろ、そうしたものは自分の内に留めて、目の前のことに取り組む、という性質がある。だからなのか、「昔の価値観」に親和性があるように感じられ、そうした人物に好感を持つ。

この本については一段落したら、別の記事で触れたいと思っている。

とまぁ、ここ最近の僕は、そうした規範になるものを探し求めているのだ。これは弱さだし、これまでの中でそうしたものが築けていない失望であったりするのだけど、そう嘆いていても仕方ないので、そうしたテーマを今年は持っている、ということだと思っている。