自分を知る2
昨日は、自分の心は潤いを失い、感情の起伏に乏しく心が死んでしまっているのではないか、というようなことを書いた。
書いた後に思ったけど、ネガティブな内容だ。ネガティブ思考だ。
これをポジティブ思考へ転回したい。そのためには自分に自身をつけねばなるまい。
自身をつけるにはどうするか。巷で流行りの、筋トレが良いらしい。
筋トレをして筋肉がつくとメンタルタフネスも向上して自信がつくらしい。
肥満気味になっているので、一石二鳥だ。とりあえず、腹筋と腕立てをちょこちょこと始めている。
一方で、自分を知る、つまり自分の軸というものを深く理解するには、自己分析が必要だ。いま読んでいる本に、まさにそうしたキーワードが出てきて、ちょっとだけワクワクしている。
そうしたガイダンスなり外部要因がないと前に進めないのか、というのはあるが、それはネガティブ思考なのだ。むしろ前に進んでから言え、ってなもんだな。
まずはその自己分析とやらをやってみよう。
自分を知る
自己分析を真剣にしたことはあるだろうか。
僕はある程度までしかない。
ストレングス・ファインダーの本や数多ある占いの本・サイトなどで、自分を外側から知る、ということはやったことがある。
どれも、へぇ〜、というものや、確かにあたっているかも、というものまでまちまちだが、得てして娯楽止まりで、時間が経てば忘れているようなものだ。
多分、大抵の人は同じではないだろうか。
人はみな自分のことは実はよく知らなくて、占いなどで特定の「型」に当てはまりたがっている。それは分かりやすい型があったほうが、それを共通認識として他の人とも会話ができる。不安定で未知のものより、安定して既知のもののほうが、安心するのだ。血液型占いも同じ類のもので、よく言われるように、日本人の好みとして、そうしたタイプ分け、というのが好きなのかもしれない。
話がちょっとずれたけど、僕がやりたいのは深い自己分析だ。
といっても切り口が沢山ありすぎるので、試しに問を立ててみよう。そこから浮かび上がってくる自分の像があるかもしれない。
「自分はどういう人間だと思うか」
僕は自分自身は冷え切った人間とたまに思うくらい、他人に対して結構ドライなところがある。それは自分でも、もっとウェットになりたい、とも思うのだけど、「面倒」という壁がそこに立ちはだかり、結局人に対して積極的に関わろう、という姿勢がなかなかた生まれてこない。むしろ、他の人が面倒事を抱えているとき、助けになりたいという思いがある一方で、なるべく面倒事には巻き込まれたくない、という気持ちも働き、ときに中途半端になったり、あるいは他の人がヘルプしているのを見て、じゃあ自分は大丈夫かな、とその場を後にしたり、あるいは面倒そうだからとひっそりしている、ということは間々ある。電車で人に席を譲るという行為もしなくなって久しくなり、自分の中に、潤いというものが枯渇しているのを感じる。余裕がないというか、心が狭くなったというか、小さな人間になったというか。
これは年を重ねていくにつれ、ずる賢くなる、という部分もあるのだろうとは思う。しかしそれだけが原因ではないし、積極的に関わる人もいるので、やはり心の持ちようなのだろう。
そうしたことで、自分自身に絶望を感じることもある。自分は何てちっぽけな人間なのだろう、と。
こうした諸々をぐっと堪えて、積極的に関わってみる、自分に潤いを取り戻すために、行動してみる、ということを思ったときに、「面倒」という感情が行く手を拒むのだ。
面倒だからやらないのなら、結局変わりたいと心底思っていないってことじゃないのか。自分を卑下しながら、しかし日常の惰性に流されながら、ずっとうじうじしているのか、と。
アドラー的に考えると、ずっとうじうじしていることに、僕はメリットを感じている、とも考えられるのだろう。僕が望んでうじうじしている。それは、変化が少なく、消費エネルギーも小さく抑えられる生き方。物事に積極的に関わろうとすると、それだけ変化もあるしエネルギーも使う。人に席を譲ることでさえ、ドキドキしてエネルギーを使うのだ。そうした感情の起伏からなるべく距離を起きたい、なるべくフラットでいたい、というのが僕の望みなのだろうか。
そんなの楽しくない、生きている意味があるのか、そんな声が聞こえる。
でも、辛くもない、しんどくもない、のだ。
自分に絶望して、自分を卑下して、と先程書いたけど、もうそれに慣れてしまっている自分がいるのではないか。
それは即ち、心が死んでいるのではないだろうか。
心の起伏が少なくなって、喜怒哀楽を純粋に味わえるような心の持ちようではなくなっているのではないか。
思い当たる節はいくつかある。素直に喜ぶことは恥ずかしく思うし、ポジティブのリアクションは僕は弱いほうだ。感情を素直に表現する、ということが苦手なのだ。
それが自分。
きっと、なんとなくだけど、「有り難い」ということが、頭では分かっていても心では分かっていない、そんな状態のように思える。
僕は自分を変えたいか?感情を素直に表現できるようになりたいか?心の起伏を取り戻したいか?物事に積極的に関わっていく強さを持ちたいか?
今日のメモはここまで。
メモをする
最近、巷でやたらにメモをする系の本を目にする。
実際に類似の本を読んだことはあるし、最近いくつか本をもらうことがあり、その中に「メモの魔力」という本があり、ちょっと読み始めたところだ。
メモをとることは、良いことだと思う。
見聞きしたことや経験、あるいは思いついたことを書き留めることで、自分の思考を広げていく、深化させる、あるいは解像度をあげる、といったことはあるだろう。
手書きでもスマホでも、メモを取る、そして読み返す、ということは、プラスの作業なのだということは、本を読まなくても体感的には分かる。
ここで僕がちょっと思うのは、ブログをメモ代わりに使う、ということ。
出来事だったり自分の考えだったりを記事に書くというのは、大きな意味ではメモと呼べる使い方もできるだろうし、オンラインでアーカイブされており、タグを付けておけば振り返りもしやすいだろう。日付も自動で入っているので、あの時こんなこと考えていたなぁ、なんて過去の自分との対比だったり懐かしさだったり、そういったことも味わえる。
それより何より、文字を起こす作業というのは、自分の頭の中から考えを言語化する過程において、それが再び自分にインプットされ、考えている中身が少し具体的な形を帯びる、という感覚がある。
そういった意味で、ときにだらだらとした記事になるかもしれないけども、自分用の考えメモというのを、やってみようかなと思う今日このごろ。
今年もよろしくお願いいたします
三が日も終わり、仕事始めだった人も多いのかもしれません。
僕はまだ休みの中におりますが、そのうちまた仕事の日々に追われるのかと思うと、気が重くなっていきます。
今年は生活リズムを変えたいと思っていて、もっと早く起きれるようになりたいと考えていたりします。
やはり毎日仕事に疲れて帰ってくると、ダラダラと過ごしてしまうことが多いと感じられ、朝に時間を作ってそこで時間を当てられるなら、そちらの方が生産的だと思うからです。
問題は、これまで幾度となくそう思っては来たのだけど、実際に早起きすることが叶わない、という点ですね。
言うは易し行うは難し、ってやつですね。
そうは言っても新年あけたばかりなので、所信表明として、このブログに書き込んでおきたいと思うのであります。
もう一度言います。
今年は早起きをして生産的な時間を作る。
さてそのためには早いうちに寝ないといけないのだけども、こんな時間にブログを書いているというのが、あちゃー、なところだったりします。
ということで、今年はもう少しブログの記事を書けるようになり、早起きの途中経過もそこに加えてリマインドしていきたいなと思う今日この頃です。
どうぞよろしくお願いいたします。
平成最後の大晦日
平成最後の、という枕詞が巷に溢れる昨今、本日大晦日もその例に漏れない。
平成最後の年越しを過ごそうと街は賑わいお店は商売に精を出し若者は渋谷へ集結し紅白歌合戦では今夜もウッちゃんが活躍している。
そんな折に僕は久しぶりにこのブログを開いた。
忘れていたわけではないのだけど、かといって記事を書く気が起きなかったのもあって、相も変わらず無更新が続いていた。
振り返ってみれば、公私ともに今年は変化の多い時代であり、それは来年も続く。
忙しさに追われ、といえば聞こえがいいが、自分をコントロールするのが難しい、あるいは自分に甘く状況に流されやすい一年だった、とも言えそうだ。
時にそれは大事なこともある。流れに抗わず、身を任せることが必要な時も。
でもちょっと反省点はあるかな。
時間とお金の使い方が後半ルーズになってしまっている。
一面的には生活の質向上というところがあるのでそれを否定するわけではないのだけど、締めるところを締める、というブレーキに、課題が残った。
来年2019年は、セルフコントロール、あるいは自己解決的な面を意識して過ごしたい。
一方で、趣味の領域で環境を整えた今年後半でもあるので、趣味を楽しむ、ということにも力を注ぎたいと思っている。
みなさんはどんな年にしたいだろうか。
そんなことを思いつつ、”平成最後の”何がしかを、楽しみましょう!
良いお年をお迎えください。
ぼうっとする
ぼうっとする事は嫌いではない。むしろ好きだ。
ぼうっとするには、場所を選ぶ。
家でぼうっとすることは、無いとは言い切れないが、するなら外でするに限る。
外ならどこでもいい、というわけではない。
広くて、人がすくなくて、爽やかな場所が良い。
開放的で、雑音が少なく、気持ちのよいところが良いとも言い換えられる。
これまでの経験からいくと、大きな公園、山、海、ゲレンデ、あたりが良い。
ゲレンデはあまり日常的でないし、山に登るのも日常的とは言い難いから、公園か海辺ということになる。
公園と言っても、色々ある。
僕が好きなのは、緑が多く、鳥のさえずりが聞こえるような場所だ。
風を肌で感じながら、頭に浮かんでくる事を静かに考えることができる。
数少ない体験だが、そのうち内側から活力が湧いてくるということもある。
それは場所と状況によるだろう。滅多にないことだから。
そういうところで、ぼうっとするのが好きだ。
住む場所にもよるが、海辺もおすすめだ。
砂浜に腰を下ろし、波の音を聞きながら、遠い地平線に目をやる。
緑に囲まれた環境とは異なり、考え事というのが波の音とともに次第になくなっていく。
まるで返す波にさらわれていく砂のように、さらさらと頭の中の思考が何もなくなり、空っぽになる。
ふと、自分には深刻な悩みなんて無いのではないか、という気持ちになる。
あるいは、本当に考えていることというものが無いのではないか、と思えてくる。
次第に思考も気持ちもさらさらと空っぽになり、平らになっていく。
これは不思議な経験である。
緑に囲まれた環境でぼうっとすることは、物思いにふけったり、少々の自然を感じることで、活力を得たりするといった、再帰的な一面がある。
一方、海辺でぼうっとするのは、思考も感情もリセットするような、浄化的な一面がある。
あくまで個人的な感触なので、人によっては違うのかもしれない。
そもそも、ぼうっとするようなことが性に合わない人もいるだろう。
僕自身、いつもぼうっとしているわけでもないし、ぼうっとした時に、いつでも上で書いたような効果が得られる、というわけでもない。
ただ、うまくぼうっとできたときは、なんだかちょっと贅沢な時間を過ごした感じになる。
だから、ぼうっとすることが好きなのだ。
考えてもらいたい時
どうにも困る人がいる。
比較的年長であり、キャリアも上ではあるのだけど、性格が天然なのか考えが掴めないことがあったり、一方で杓子定規的で文書主義でもあり、頭の固いところもある。思い込みも激しく、自己主張が強いところもある。
こうした厄介な面を持たれている先輩がいるのだが、仕事も遅く、何かにつけてずっと悩んで進まない、ということもたまにある。
例えば今日、何か1つの問題があってそれに答えを出さないといけない事があった際に、何が問題でどんなことが考えられ、何が回答として考えられるか、といったような時、僕は前提知識がある分野だからというのもあるのだが、すぐに答えにたどり着く事ができたのだけど、その先輩といえば、そもそも問題の把握が適切ではないので、モノの捉え方が違う事で全く違う点からアプローチしようとしていたのだ。
最初から答えはこれ、といっても本人のためにならない(と思っている)ので、まずは何が問題であるかをもう一度考えてもらい、考えられる回答の可能性を探ってもらおうとしたのだが、結局は中々正しい問題認識が得られず、答えを提示することになった。
この時の僕は、きっと傲慢で嫌な奴に見られていただろう。
僕としては、問題把握の違いに気づいて、かつ答えへのアプローチについて、一度考えて頂きたい、と思うのだ。勿論、アプローチは人それぞれのやり方があるのだが、少なくともスタート地点が大きくズレているのはまずい。
これ一回きりではなく、他にもスタート地点が違うことで色々とあるから、言わないといけないのだ。
こうした時に、上手く伝えられるようになりたい。そんなことを思う、今日この頃。