年を明けて
気がつけば年を下旬へ突入。
1月から仕事面でもいくつかイベントがあり、ゆっくりしていられない状況が相変わらず続いている。
私生活面においてはいくつかの本を読み、新年にありがちな、よし今年こそはとライフスタイルを改めたいと思いつつ、やはりというか日常の惰性に抗うこともできず、いや身を任せ相も変わらず誘惑に影響されまくっている。
とは言いつつも、昨年は読書の頻度が下がり、また読んだとしてもブログにすることもなく忘れていくのだが、やはりアウトプットは大事である。
妻がひょんなことからアウトプットをするようになってから色々と調子が良いところを間近で見ていると、尻を叩かれる気持ちになり、僕も少なくともブログの更新をもうちょっと頻度を上げたいと思ったりする。
読んだ本のことは次の機会に譲るとして、最近映画を見たので少々。
なんとなく気にはなっていたこのタイトル、あと1センチの恋。
幼馴染の男女が成長する過程で生じる微妙なすれ違いを描いた、題材としてはよくある話。
話半分で見ていた妻が要所要所で、「男女が時としてお互いの逃げ場になるの、不思議よね〜」とか、物語の顛末を見て「茶番だな」と切り捨てるお話出会った。
日本酒を煽りながら見ていたからなのか話の最後がどうだったのか思い出せない。
思い出せるのはリリーコリンズが可愛らしくハーマイオニーに似てるなぁ、演技も良いなぁ、というのと、赤髪のオバハンめっちゃいい人、ってところだ。
次。
逃げ恥で一躍スターダム?な星野源。
その原型のような主人公35歳童貞実家暮らしの男が、盲目の女の子に恋をする話。
コミカルでシニカルで時としてシリアスで結局はエロパワー。
シュールな空気感が最後まで貫かれていることで、賛否両論あるようだが、演者の味がそれぞれ見るものを楽しませてくれる。
僕としては星野源は逃げ恥でガッキーとイチャイチャしているし、本作で夏帆ともイチャイチャしいるし、とっても羨ましい限りだ。
しかしこういう役は彼の得意とするところなのか、機微が上手。
今後も楽しみだ。
良いお年を
あっという間に2016年が終わろうとしている。
みなさん大晦日はどこでお過ごしになっているのでしょうか。
今年は新しい部署で新しい仕事に携わり、慌ただしい日々を過ごしていた。
行く前からある程度の覚悟はしていたが、その覚悟がいかに弱いものであり、かつ自分自身にいかに力量が無いのかというのを場面場面思い知らされる日々であった。
仕事というのはまるで生き物のようで、自分が深く追求し探求し知識を深めていくことで、技術的に応えられ場面が広がっていく面と、あるいは視点や考え方、問題をうまくさばく、ということで仕事を片付けていく面とがある。
僕は後者であることが多く、いまの仕事でも通じる部分がありはするのだけど、前者の姿勢が弱ければ弱いほど、困難と対峙したときに窮することが少なくない。
そうした時は他のメンバーに助けてもらう、というのが手段としてあるのだけど、一人でできることが少ないままであるのは良いことではないのだ。
そうした意味で、僕は僕個人の力をもっと伸ばさないといけなく、そのために経験をつまないといけないのは変わらず必要なことだ。
そこでやっかいなのは精神的な不安や怖れなのであり、そこで二の足を踏む。
そうも言ってられないのは分かっているのだが、良くも悪くも助けられながらこなしてきた経緯があることが、僕を更に怠惰にさせるのだ。
いや、ここで怠惰になるそのこと自身、僕の問題であることを物語っている。
この精神的弱さを克服することが、今までずっと直面している僕の問題であり課題なのだ。
色々と反省すべき点を抱えていて、それらは今まで僕が何度も過去繰り返し内省しては淡く消え、再び認識する、という地団駄を踏んでいるのだ。
2017年は少しでも前進ができるだろうか。
僕は僕自身に絶望しつつ、その一方で楽観的で変わろうとしない自分がいることも分かっている。
それは自分を苦しみるだけであることも。
一体僕は何になりたいのか?
いや、何にもなりたくないのではないか。
言ってしまえば楽をして楽しく生きていきたいだけなのだ。
そしてそのために適度な努力をしつつ、しかして不足をもがき埋めようということはしない。
2017年、僕は結局そのままの姿勢でいるのかもしれない。でも、そのままで良いのだろうか。
そんなことを、ちょっと思う。
さて、もうすぐ2016年が終わろうとしています。
今年はどんな年だったでしょうか。
どんな年であっても、2017年、お互いとって良い年にしましょう!
良いお年を!
英会話
Skype英会話をしていて時事ネタを取り扱うと、いつも変な汗を書く。
(時事ネタじゃなくてもかいているんだけども)
今日取り扱ったのはソマリア難民のニュースに関するもので、ケニアの難民キャンプからソマリアに帰還した青年の話を題材に、教育がない状況で帰還後の生活基盤の獲得がいかに難しいか、一方で難民キャンプに留まっていたままではいけない、という趣旨の話。
それに対してどう思うか、どうすればこの状況が良くなるか、などを問いかけてくるのが授業スタイルだ。
もちろんしどろもどろに答えるのだが、過去何度かこうした人道支援などの記事を扱った場合、答えた内容が現実的にそれが可能か、というように具体的に踏み込んでくるのだ。
それはたいてい、僕が各国で協力して問題に対処していく必要がある的な、サミットのふわっとした宣言のようなことを言うからなのだけども。
一方で、先生側は東欧の人であり職を得ることが難しい環境にあり、決して裕福とはいえない環境のようだ。
それもあってなのか、「君はどうやって支援すべきだと思う?どうやったら良くなると思う?君は何かをやっているかい?」ということを聞いてくるのだ。
僕は以前別の先生に、「あなたは楽観的ね」と笑いながら言われたこともある。
そう、彼らにとって難民や貧困に関わる事柄はシリアスで現実的な問題なのだ。
そのことを、会話をしていると感じるのである。
そして、日本という遠く離れた国で、現実的な問題という肌感覚を持っていない僕は、良くも悪くもこうした問題に鈍感なのだ、ということに気付かされるのだ。
かといって具体的に僕ができることといえば、そうした事に関心を寄せる、ということしかないのもまた事実。
仕事をやめて海外青年協力隊に入る熱量も、自己満足的になってしまうであろう寄付への衝動も、いまのところ持っていない。
けれど、少しの関心を払うことはできるので、少なくとも何が起きているのかは知っておこうかなとは思います。
参考:
ソマリアについて - 日本ソマリア青年機構(Japan Somalia Youth Organization)
ソマリアでの帰還民支援の現場から ミニレポート 2016年12月│IOM 国際移住機関
アフリカを覆う「難民問題」の厳しすぎる現実 | アフリカ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
「深刻化する難民危機 世界と日本の役割」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス
ストレスと酒
酒の力というのは偉大である。
最近、高ストレス下に置かれることがあり、その時の時間の使い方というのは人それぞれだと思う。
僕の場合は最悪で、ウジウジと悪い方向へぐるぐる頭を使い心身を疲弊させてしまう。
だから何かするような気力も湧かず、できれば布団で横になりただただ平静を保っていたい気になるのだ。
それで解決することはないのは百も承知で、問題に背を向け快適な時間を過ごしたい、そうした時間なのだ。
これは心の弱さに起因する問題だと思う。
心配すべき問題とそうではない問題との違い、そして今それが必要なのかそうではないのかの判断の可否、そうした点を、感情論や精神論で一緒くたにしてしまう。
とはいっても、結局のところ問題に対する態度、あるいは心持ちの強度の違いが大きく左右されるのだろう。
僕はその力が弱い。自覚しどうすれば良いのか迷うほど弱い。
しかしそれで良しとされる位置に僕はいないのだ。
強くならなければ、強くあらねばならない。
そんなこと、ずっと前からわかっているのに、それがどんなに困難であるか。
こうした文を書いているのは客観的になれるし、そのことに相対的に距離を取れる。
しかし事は主観的なことであって、対峙したときの反応は、その場、その時に刻々と刻まれるのだ。
なーんて。
何が一番大事なのか。
そして自分は何がやりたいのか。
僕はいま大変な道の途中にいる。自分の臨んだ道である。
一人前にならなければ次は無いのだが、それが如何に大変なのか、正に噛み締めているのだ。。
そうしたストレスに押しつぶされると、自分というものが破綻する。
冒頭でいった酒の偉大さというのは、目の前の闇を、一時的に取り除いてくれることだ。
それは恒久的なことではないのは重々承知だ。
しかしそんなことはとりあえず横においておいて、愉快な気分にさせてくれる酒の効用というのは、なかなか馬鹿にできないものだと感じる今日のこの頃なのだ。
Mac product
Macとの付き合いは深くはないのだが長い。
よく爆弾アイコンを見た時代から知っている関係ではあるけれど、かといってdeepに付き合っていたわけでもない。
写真や動画を編集するのに自宅のiMacは長年使っており、今でも現役である。
時が経ち会社のPCもMac利用を推奨している流れの中で、僕は年末商戦の折に一つのMac Book Airを発見してしまった。
それは中古で店頭でセールしていたものだなのだけど、CPUはi5 1.3Ghz,メモリは8GBでSSD256GBのお値打ち品のものだった。
すでに古いものではあるのだけど、mobile PCとしては十分でかつ11inchiかつ非常に軽量でありつつ所有感を満たす使い回しの良さに一目惚れしてしまった。
ノートPCを求めていた訳でもないのに、たまたま通りがかった年末セールで衝動買いをしてしまったのである。
なんと愚かな。といいつつも、買ったその日からこのMBAをどう使おうかと日々立ち上げては思案しているので、やはりproduct designというのは馬鹿に出来ない。
娶るからには責任を持たねばならないわけで、一通り役に立ちそうなアプリは導入中である。
家は以前からカスペルスキーを使用してこのMBAにもそれを導入しているのだが、そrが原因なのかSSL接続に難があり、Googleへの接続がうまくない。
Web上を検索していると類似例は多く、解決していたりしていなかったり様々だ。
僕はといえば、カスペルスキーの設定を変更することで解決したのだけど、そう思いきや次の起動でまたダメになったりと、試行錯誤している。
もともとカスペルスキーを入れる前に他のセキュリティソフトでも同様の現象にあっていたので、セキュリティソフト関連であることは疑いがなく、しかしその根っこはいささか深いものである。
運用を含めて少しずつつめていきたいところだ。
その話とは全く別に、本日Magic Mouse2が手元に届いた。Majic Track padをiMacで使用していたのだけど、どうにもclikcの感触が好きになれずに、かつclickのコンポーネントが悪くなったのか反応が悪い、あるいは平坦な場所でなければうまく機能できないなど、使用感においてデメリットが上回っていたので、MouseでありつつフィンガーアクションができるMagic Mouseを試してみることにしたのだ。
使い始めであるためこれからではあるものの、概ね良好な印象。
mouseも薄くかつMBA同様アルミ感を兼ね備えている。
iMacにももちろん、仕事場のMacにも使用できるので、良い買い物をした感想である。
とりあえずは、これはからどのようにMBAを最大限活用していこうかというのが専らの思案で、巷でよく言われる、いやすでに昔のことかもしれないが、スタバでドヤ顔というのをやってみたい気持ちにかられている。(まだやっていない)
羊の歌
"爆撃機が頭上にあったときに、私は孤独であった。爆撃機が去って後の数日ほど、私が孤独でなかったことはない。"
<iframe style="width:120px;height:240px;" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" frameborder="0" src="//rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&bc1=000000&IS2=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=gomanosukeblo-22&o=9&p=8&l=as4&m=amazon&f=ifr&ref=as_ss_li_til&asins=4004150965&linkId=f94025cea6d30a309332fb7b033a81d1"></iframe>
著・加藤 周一
氏の半生を綴った、記憶を辿りながら書かれた本書。
途中途中に著名人、と言っても私自身はその人々を知らないのだけども、高名である方々が少なくないはずで、そうした人物と日常の中で一緒に過ごしたりすれ違ったりをしていることにも触れられる。
氏の視点から見ていた光景や、その内省はとても客観的で論理的な判断が常に下されてきたし、振り返ってみれば小さい頃からなんとなく感じてきたことの再認識と、そのことの吐露、あるいは客観的分析というのが語られている。
いずれの場面も当時の生活の様子や時代の雰囲気というものが紙面に漂っており、かつ氏の分析に富んだ視点というものを読むことができる。
本書で出てくる各著名人の代表作や人のなりというものを知っていると、当時の時代描写の距離感がぐっと近くなりそうな気がする。
もう一つ、印象的だったのは演舞のことだ。
空襲に備えて灯火管制が始まる状況の中、氏は新橋演舞場の切符を持っていたのでふらりと行ってみた。興行は中止と思いきや、観客まばらな会場で、三味線と古靭太夫の声が鳴り響く。
外にある軍国日本の観念の世界とは全く別の世界を、全く譲らず、鮮やかに堂々と、悲劇的に、その表現の世界があったのだと、氏は回顧する。
権力者達が始めた無謀な戦いを冷ややかに見つめ、しかし世間の空気は確実に軍国主義に染まって行く中で、氏はまたしてもそこで客観性を知覚したのだろう。
本書で書かれる文章は教養の高さが実現するものではあるけれど、少しでもそれを吸収したいものだなぁ。
しかし、本書と同じように小さい頃から解雇して自身の経緯を書けるかというと、書けないよねぇ。
日本酒
突然だが、最近日本酒にはまっている。
暇さえあれば日本酒の事を調べたり、銘柄の評判を検索したりと、日本酒へ傾倒しがちである。
きっかけは美味しい日本酒を飲む事があったから、というのと、友人が日本酒分野の開拓をしているのに刺激を受けたから、というところだろうか。
もう一つは「夏子の酒」を最近読んで、日本酒作りとその人間模様に感動を覚えたからだろうか。
傾倒ぶりが徹底しているわけではないが、しかし自らの行為を振り返れば愚かだなぁとは思う。
近所の酒屋に出入りするようになったり、週に1回程度は日本酒を買いにいったり、それでは空き足らず、気になる銘柄、あるいは飲んで気に入った銘柄を近所では手に入りらないからといって通販で計7,8本買ったりなどとしている。
実に愚かである。
これは何であろうか。気になったものへ簡単に手を出す購買行為。その商品が時期限定的なものであれば焦燥感を覚えるほど、手に入れたくなる。
これは物欲なのだろうか。
人は満たされないと食欲に走ると聞く。
酒への欲は現実逃避の道なのだろうか。
そう問うと、今の自分の仕事ぶりに満足しているわけではないし、いまの職位に充実感を感じているわけではないのは事実だ。
しかし出来ないことを出来ないままにして他の事に逃げるのは甘えなのだろう。
だからといってこの日本酒熱が虚構であるとは言いがたく、これを区別して混同することなくそれぞれの技術を磨く事に力を注げば良いのかもしれない。