過ぎ行く日々を少しでも。

日々の色々を記録していくトコロ。

依存性

一人の時間は貴重だ。
勉強をする、本を読む、ワインを飲みながら映画鑑賞をする。
一人の世界に埋没する行為はノイズの多い外界と距離を置くことで自分に充足感をもたらしてくれる。

一方で、妻といる時間も楽しい。いや、それが当たり前のことになっている。
妻の他愛もない話、今日の出来事、テレビへの反応など、喜怒哀楽豊かにそれを表すこと。時に子供のようにお互い戯れること。
こうした事は時に僕を癒やしてくれ、時に元気を与えてくれる。
掛け替えのないことなのだ。

一人でつまらなくしているときに、妻が帰ってくるのが分かりそわそわする。
妻と出かけるつもりでいたのに、彼女がなかなか起きずに結局互いの意見もタイミング合わずに出かけられなかった時に腹立たしく思うのは、二人で出かけたい気持ちが強かったからだろう。

これを僕は依存性というタイトルで書き始めたのだけど、その根本にあるのはうまく気持ちを切り替えられないから。
本を読んだり勉強する時間を確保するには妻といる時間を削ることになるのだけど、どうしても後者の方に気持ちが傾く。
勉強から逃げたいという回避本能が働いているきらいもあるが、妻との時間に依存していやしないかという疑問も残る。なぜならそのほうが楽しく、楽だから。
これは甘えなのだろうか。そうした依存性を示しているのだろうか。

刹那的な甘えを持続すれば長期的に怠惰な習慣となる。そしてもうそれはなった。
この甘えという依存性から脱却しなければいけないのだけど、誘惑は強い。。

隔たり

新しいことをやりたい、というだけの人は受け入れない。
あの人はそう言った。
新しく入ったAさんもBさんも、そうではなかった。物事を突き詰めたいらしい。
そういう人が必要なのだ、と。

言われてやるだけの人間はいらないと、違う人が合いの手を入れる。
それはそうだろうとは思う。自分で考えなければこの仕事は回らない。

要は何がいいたいかというと、今の上司と僕の関係は好ましくない。というよりきっと悪い。
きっかけは間接的な事件だ。
僕がまるで告げ口をしたかのように、僕が原因で事件になったと思われている。
きっかけはそうではないのだが、かといって関係がゼロだとも言えない。だから僕はその事について何か言うことは辞めた。本質としては上司に非があるのは分かる。それを告げ口したという行為に非があることを思うが、直接的に僕はそうしたことをしたわけではない。と言いたい。まぁこれについては自分可愛さの話であろう。

話を戻す。
とかく僕と上司の関係は良くない。
ある意味ではある程度予想していた範囲ではある。
僕はスキルも語学力も乏しい。そんか僕がメンバーに加わるのだ。能力的に見劣っている。
将来それをどの程度、そしてより短い期間で乗り越え上回るか、受け入れ時のバタバタに伴うピンチをその将来という白紙部分と埋め合わせるように僕を受け入れたのだろう。

そう思ってしまうほどに日々隔たりを感じる。
そしてそれを感じるほどに、僕は上司、ひいては権力に対して卑屈、媚びている自分を改めて感じる。
更に言えばある程度予想していたと言いつつもそうした現実に直面すると困惑し怯む自分の甘さを感じる。

こうした自分をいま見つめている。
このままで良いとは思わない。というかそんな僕だとしても絶対に認めさせてやるとは思う。それ以上に認めさせてやると思う時点で目的が上司になるのが嫌だ。そこではない。更に大きなところ、つまり僕がいまいるところで十分にそしてそれ以上に活躍をすること、その先にワールドワイドでも一目置かれること。
あ、これってとある先輩の今の立ち位置に似ている。その面では尊敬するが、他方ではそうでは無い部分もあったりする。

とりとめが無くなってきたが、これは今始まったことではない。
もう4月だ。
後輩に拔かれる立場にある僕は、実力主義的な面に直面しつつ、そして日々の困難を目の前に、どう対応していくべきか悩みの毎日にある。

負けるな。前を見ろ。そして力をつけろ。

そんな事を考えたりする最近です。


あ、追記。思い出した。
楽しい思い出ってのは、やらない事では増えなくて、やる事で増えるってことをチュニジアで知ったんだった。あの時、飛び込んで良かったって後から思えたんだ。

今はそう思えないし、今後そう思える保証は何にもない。
だけどその価値観がまずあるんだ。
上司の隔たりを感じる前に、その体験があったはずだ。
楽しみをみつけること、ってのは上司の言葉だし、昔いた最初の偉人も、仕事を楽しめと言っていた。
飛び込んだんだから楽しめるようにやってくしかない。
そのための実践をしようよ。

プライド

仕事に対するプライド。

俺は大体のところうまく回せればそれでいいと思っていて、物事はそれぞれの程度で判断している節がある。

プライオリティを着けてそれを行うことは悪いことでは無いのだと思っているのたけど、これは相対的な見方だ。

絶対的な見方はどうだ。
いや、絶対的な見方としてそうなんだろうけど、先輩の見方はこうだ。
まず自分が知っていること。それについてちゃんと調べていること。
その上で、相手が質問したい事について表面的、いわば条件反射的に投げかけているのか、あるいは自分で調べて投げかけているのか。その質を見ているのだと。
自分が納得して始めて上位に投げること。
この、自分が納得して、のところにどれだけの重みを加えるか。
絶対的な判断としてはここが仕事のプライドの一つだろう。

俯瞰的に見て、全体的な仕事をどう効率よく回すかという判断もあるけど、前述にある質の話は改めて覚え実践すべき点ではあると、いまある立場上思うのだ。

5点

英語が5点足りなかった。
発表日前からソワソワしていた。点が伸びているかもしれないという期待半分、言うほど変わってないだろうなぁという諦め半分。
結果的には伸びていたが、目指していたボーダーまでの点数から5点足りなかった。
これが何ともリアルである。 
まず伸びていたことに対する喜びはある。
あ、おれ力付いてるんだ、という素朴な喜び。
一方で、0か1かで言えば未だ実力不足だという現実を改めて突きつけられる。
いや、改めて突きつけられるという表現はおかしい。そんなもの毎日食らっているのだから。

目指すボーダーというのは海外出張のボーダーだ。
初めからわかっていた事として僕の英語力は客観的に乏しい。
でもいざ入ってみて出来ないながらもやっているとある程度できるじゃんという慢心から手を抜き始めるところがあって、いやいや待て待て手を抜くどころが俺は最も出来ないのだという現実を華麗に忘れ去ろうとしてしまうクセがある。
だから、ではないが、あとから入ってきた新人が先に海外研修へ行くことになり、いやそれは当然なのだが、彼にはその資格があり俺にはその資格がない、ただそれだけなのだ。

くやしいと思うか?
ああ、確かに思う。

だから俺はそのボーダーをクリアしなくてはいけなくて、なるべくその勉強に時間を割こうとしている。でも日常の惰性に引き戻される、というのはいつものクセだ。
この5点はその結果でもあるのかもしれない。
てひこの5点を取れば後はハッピーか、というとそういう訳ではない。この5点を取った上のスタートラインなのだから、俺の未熟さ足るや、というところなわけだ。
どうのこうの垂れる話ではない。

これに努力し苦心した先輩方を知っていればこそ、僕がまずそれを越えて、更に前へ進むのは当然の理であるはずで。

そんなことを帰りの電車の中で思う。


ここ最近

新しい環境で早4ヶ月が過ぎようとしている。
最初の頃はビギナーとしてエクスキューズもあったが、徐々に取り組みの深度も深まってきている。
当然ながら経験は浅いので不足ばかりではあるが、そうも言ってられないし、それで許される環境でもない。
最近は特に己の未熟さからなのかナメられるような一件もあった。
腹立たしい思いもするし、相手の立場で考えれば分からなくもないが、やはり腹が立つ。
それを防ぐには、自己研磨をしてレベルを上げるしかない。

英語力と対応力の研磨も大切。
対応力というのは、いかに素早く状況把握をして次の行動に移れるかということ。
ぽん、と問題が舞い込んだ時に、いかに慌てず落ち着いて対処できるか。
道のりは険しい。

愚かさ

ここ3ヶ月、特に今年に入ってなのだけど、自分の愚かさを感じている。

どのような愚かさかといえば、理性の低さに、というところだ。

まず目立つのは金銭面だ。

引っ越してから飲み会が劇的に増えたことで食事代の支払い額が高騰している。

年始ということも加味すると季節的なイベントである面もあるのだけど、ふと気づけば本来使用できる金額をとっくに越しているのだ。

次いでイベントも増えた。単純にイベントにまつわる経費の点に加えて、イベントに付加価値的に追随するツール群の用意もまたばかにならない。

現在登山に手を出し始め、ザックやバーナーやその他装備に徐々に染まり始めている。

この費用が割とかかる。

加えて特殊的なものだけど、年始セールの誘惑に負けたのが痛かった。ちょっと音響器具で良い物が欲しくて、DACとスピーカーその他付属を買ってしまった。これが完全に裏目に出ている。

極めつけは旅行である。これについては抜き差しならない状態に陥ったことで、清水の舞台から飛び下りる形で断行したのでもはや何も言うまい。楽しむのみの境地だった。

これらの結果、先行きが非常に真っ黒である。オーバーキルも良いところだ。

 

次に過去幾度も自己嫌悪に陥っているのでぶり返すまでもないことだけども、日々勉強の姿勢について。これについてはもはや繰り返さない。

 

とにかく理性の力が低いことでコントロールを失い、堕落し、理想と現実のギャップの中で勝手に苦しんでいるわけなのだ。

ここで、最近読み始めた、難解でさっぱり分かっていないハンナ・アレントの「人間の条件」から、次のようなくだりがある。

活動と言論と思考は、それ自体では何も「生産」せず、生まず、生命そのものと同じように空虚である。それらが、世界の物となり、偉業、事実、出来事、思想あるいは観念の様式になるためには、まず見られ、効かれ、記憶され、次いで変形され、いわば物化されて、詩の言葉、書かれたページや印刷された本、(中略)要するに物にならなければならない。人間事象の事実的世界全体は、まず第一に、それを見、聞き、記憶する他人が存在し、第二に、触知できないものを触知できる物に変形することによって、はじめてリアリティを得、持続する存在となる。

まだ読み途中なのでこの本について言えることはまだない(読んだあともないかも、、)のだけど、ところどころ、僕にも認識できるような作者の洞察は興味深く、上記の引用もまたその一つだ。

例えばこのブログに記事を書いていることで僕の乱雑な思考が一応はこうして文になって起こるのであって、そうでもしなければ思考の彼方へ飛んでいくわけだ。

こうして記事になることで意味無意味は別にして世界に出て行くのであって、それが実在した物、物化になる。更にいえば、もっと崇高なナニカについての思考があったとして、それが本質的なもので、かつ他者に伝えられるよう表現することで、普遍的なものになっていくのだろうし、実際に著名な本は古典として何世紀にもわたり残っていく。

逆に言えば、そうした物化をしなければリアリティを持つこと無く空虚のままだ。

確かに何か考えやアイディアがあったとしても、メモやまとまった文などを書いておかないとそれは消え去ってしまうのは誰もが経験があるのではないだろうか。

これは自身の勉強も同じことだろうと思う。

勉強している対象への理解を深め、それを試験なり生活なりへと使用していかなければ、ただ空虚なものとして終わってしまう。

先ほどの引用は、世界の物的性格を語ったものだけど、頭のなかだけで考えていてはいけない、それだけでは世界となんら繋がらない、リアリティがない、そう受け取っている。

これはごくごく当たり前のことだろう。だけどこの当たり前のことがなんだか出来ていないなぁと考えてしまったきっかけにはなった。

 

ところで、今日、緑の街に行ってきた。

静かで落ち着く。一人の時間を実感する。

隣人との適度な距離感があるからだろうか、自分のペースを保てるし、自分の世界で満足感を覚える。

海の街に戻ってきた。

先ほどの愚かさのように、消費が激しい環境だ。それは周りに影響されまくっている、つまり僕の流されやすさや弱さを露わにしているのかもしれない。

逆に言えば、自分の世界を広げるチャンスであるし、自分の弱さを見つめなおす時期でもあるのかもしれない。

 

今日はそんな駄文。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あっという間

お久しぶりです。

最近記事を書けていない。

 

引越しして新年を迎え、新しい職場と家での生活は早3ヶ月を迎えようとしている。

あっという間に日々は流れていく。

知識も経験も語学力も頭の回転も全然足りていない。

その自覚があるからこそ、日々焦っている。

その一方で、怠惰な自分は建材で、快楽が優先されてしまう。

リラックスすることを優先し、勉強がおろそかになる。

それによって、時間をムダにしているという焦りが生まれる。

このままではいけないと幾度思ったことだろう。

そのくせ、机に向かうことから逃げる。

他のことをやっているときは焦っているくせに、いざ机に向かおうとするとぐずぐずする。

非常に宙ぶらりんな状態。

 

何度僕はこうしたことを繰り返しているんだろう。

過去からまったく成長していない。

怠惰な自分にいかに打ち勝つのか。

理性の力を強めないとけいない。

そう思いつつ、結局日常に飲み込まれていくのだろうという絶望。

 

こうやってやらない言い訳を内省していても仕方が無いのにね。

 

頑張れよ、俺!