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過ぎ行く日々を少しでも。

嬉しいこと楽しいこと悲しいこと腹立たしいこと。日々の記憶を少しでも紡げる様に。

愚かさ

ここ3ヶ月、特に今年に入ってなのだけど、自分の愚かさを感じている。

どのような愚かさかといえば、理性の低さに、というところだ。

まず目立つのは金銭面だ。

引っ越してから飲み会が劇的に増えたことで食事代の支払い額が高騰している。

年始ということも加味すると季節的なイベントである面もあるのだけど、ふと気づけば本来使用できる金額をとっくに越しているのだ。

次いでイベントも増えた。単純にイベントにまつわる経費の点に加えて、イベントに付加価値的に追随するツール群の用意もまたばかにならない。

現在登山に手を出し始め、ザックやバーナーやその他装備に徐々に染まり始めている。

この費用が割とかかる。

加えて特殊的なものだけど、年始セールの誘惑に負けたのが痛かった。ちょっと音響器具で良い物が欲しくて、DACとスピーカーその他付属を買ってしまった。これが完全に裏目に出ている。

極めつけは旅行である。これについては抜き差しならない状態に陥ったことで、清水の舞台から飛び下りる形で断行したのでもはや何も言うまい。楽しむのみの境地だった。

これらの結果、先行きが非常に真っ黒である。オーバーキルも良いところだ。

 

次に過去幾度も自己嫌悪に陥っているのでぶり返すまでもないことだけども、日々勉強の姿勢について。これについてはもはや繰り返さない。

 

とにかく理性の力が低いことでコントロールを失い、堕落し、理想と現実のギャップの中で勝手に苦しんでいるわけなのだ。

ここで、最近読み始めた、難解でさっぱり分かっていないハンナ・アレントの「人間の条件」から、次のようなくだりがある。

活動と言論と思考は、それ自体では何も「生産」せず、生まず、生命そのものと同じように空虚である。それらが、世界の物となり、偉業、事実、出来事、思想あるいは観念の様式になるためには、まず見られ、効かれ、記憶され、次いで変形され、いわば物化されて、詩の言葉、書かれたページや印刷された本、(中略)要するに物にならなければならない。人間事象の事実的世界全体は、まず第一に、それを見、聞き、記憶する他人が存在し、第二に、触知できないものを触知できる物に変形することによって、はじめてリアリティを得、持続する存在となる。

まだ読み途中なのでこの本について言えることはまだない(読んだあともないかも、、)のだけど、ところどころ、僕にも認識できるような作者の洞察は興味深く、上記の引用もまたその一つだ。

例えばこのブログに記事を書いていることで僕の乱雑な思考が一応はこうして文になって起こるのであって、そうでもしなければ思考の彼方へ飛んでいくわけだ。

こうして記事になることで意味無意味は別にして世界に出て行くのであって、それが実在した物、物化になる。更にいえば、もっと崇高なナニカについての思考があったとして、それが本質的なもので、かつ他者に伝えられるよう表現することで、普遍的なものになっていくのだろうし、実際に著名な本は古典として何世紀にもわたり残っていく。

逆に言えば、そうした物化をしなければリアリティを持つこと無く空虚のままだ。

確かに何か考えやアイディアがあったとしても、メモやまとまった文などを書いておかないとそれは消え去ってしまうのは誰もが経験があるのではないだろうか。

これは自身の勉強も同じことだろうと思う。

勉強している対象への理解を深め、それを試験なり生活なりへと使用していかなければ、ただ空虚なものとして終わってしまう。

先ほどの引用は、世界の物的性格を語ったものだけど、頭のなかだけで考えていてはいけない、それだけでは世界となんら繋がらない、リアリティがない、そう受け取っている。

これはごくごく当たり前のことだろう。だけどこの当たり前のことがなんだか出来ていないなぁと考えてしまったきっかけにはなった。

 

ところで、今日、緑の街に行ってきた。

静かで落ち着く。一人の時間を実感する。

隣人との適度な距離感があるからだろうか、自分のペースを保てるし、自分の世界で満足感を覚える。

海の街に戻ってきた。

先ほどの愚かさのように、消費が激しい環境だ。それは周りに影響されまくっている、つまり僕の流されやすさや弱さを露わにしているのかもしれない。

逆に言えば、自分の世界を広げるチャンスであるし、自分の弱さを見つめなおす時期でもあるのかもしれない。

 

今日はそんな駄文。