過ぎ行く日々を少しでも。

日々の色々を記録していくトコロ。

英会話

Skype英会話をしていて時事ネタを取り扱うと、いつも変な汗を書く。

(時事ネタじゃなくてもかいているんだけども)

今日取り扱ったのはソマリア難民のニュースに関するもので、ケニアの難民キャンプからソマリアに帰還した青年の話を題材に、教育がない状況で帰還後の生活基盤の獲得がいかに難しいか、一方で難民キャンプに留まっていたままではいけない、という趣旨の話。

それに対してどう思うか、どうすればこの状況が良くなるか、などを問いかけてくるのが授業スタイルだ。

もちろんしどろもどろに答えるのだが、過去何度かこうした人道支援などの記事を扱った場合、答えた内容が現実的にそれが可能か、というように具体的に踏み込んでくるのだ。

それはたいてい、僕が各国で協力して問題に対処していく必要がある的な、サミットのふわっとした宣言のようなことを言うからなのだけども。

一方で、先生側は東欧の人であり職を得ることが難しい環境にあり、決して裕福とはいえない環境のようだ。

それもあってなのか、「君はどうやって支援すべきだと思う?どうやったら良くなると思う?君は何かをやっているかい?」ということを聞いてくるのだ。

僕は以前別の先生に、「あなたは楽観的ね」と笑いながら言われたこともある。

そう、彼らにとって難民や貧困に関わる事柄はシリアスで現実的な問題なのだ。

そのことを、会話をしていると感じるのである。

そして、日本という遠く離れた国で、現実的な問題という肌感覚を持っていない僕は、良くも悪くもこうした問題に鈍感なのだ、ということに気付かされるのだ。

 

かといって具体的に僕ができることといえば、そうした事に関心を寄せる、ということしかないのもまた事実。

仕事をやめて海外青年協力隊に入る熱量も、自己満足的になってしまうであろう寄付への衝動も、いまのところ持っていない。

けれど、少しの関心を払うことはできるので、少なくとも何が起きているのかは知っておこうかなとは思います。

 

参考:

ソマリアについて - 日本ソマリア青年機構(Japan Somalia Youth Organization)

 

ソマリアでの帰還民支援の現場から ミニレポート 2016年12月│IOM 国際移住機関

 

 

アフリカを覆う「難民問題」の厳しすぎる現実 | アフリカ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

「深刻化する難民危機 世界と日本の役割」(時論公論) | 時論公論 | NHK 解説委員室 | 解説アーカイブス

 

 

 

 

ストレスと酒

酒の力というのは偉大である。

 

最近、高ストレス下に置かれることがあり、その時の時間の使い方というのは人それぞれだと思う。

僕の場合は最悪で、ウジウジと悪い方向へぐるぐる頭を使い心身を疲弊させてしまう。

だから何かするような気力も湧かず、できれば布団で横になりただただ平静を保っていたい気になるのだ。

それで解決することはないのは百も承知で、問題に背を向け快適な時間を過ごしたい、そうした時間なのだ。

これは心の弱さに起因する問題だと思う。

心配すべき問題とそうではない問題との違い、そして今それが必要なのかそうではないのかの判断の可否、そうした点を、感情論や精神論で一緒くたにしてしまう。

とはいっても、結局のところ問題に対する態度、あるいは心持ちの強度の違いが大きく左右されるのだろう。

僕はその力が弱い。自覚しどうすれば良いのか迷うほど弱い。

しかしそれで良しとされる位置に僕はいないのだ。

 

強くならなければ、強くあらねばならない。

 

そんなこと、ずっと前からわかっているのに、それがどんなに困難であるか。

こうした文を書いているのは客観的になれるし、そのことに相対的に距離を取れる。

しかし事は主観的なことであって、対峙したときの反応は、その場、その時に刻々と刻まれるのだ。

 

なーんて。

何が一番大事なのか。

そして自分は何がやりたいのか。

僕はいま大変な道の途中にいる。自分の臨んだ道である。

一人前にならなければ次は無いのだが、それが如何に大変なのか、正に噛み締めているのだ。。

 

そうしたストレスに押しつぶされると、自分というものが破綻する。

冒頭でいった酒の偉大さというのは、目の前の闇を、一時的に取り除いてくれることだ。

それは恒久的なことではないのは重々承知だ。

しかしそんなことはとりあえず横においておいて、愉快な気分にさせてくれる酒の効用というのは、なかなか馬鹿にできないものだと感じる今日のこの頃なのだ。

 

 

 

 

Mac product

Macとの付き合いは深くはないのだが長い。

よく爆弾アイコンを見た時代から知っている関係ではあるけれど、かといってdeepに付き合っていたわけでもない。

写真や動画を編集するのに自宅のiMacは長年使っており、今でも現役である。

時が経ち会社のPCもMac利用を推奨している流れの中で、僕は年末商戦の折に一つのMac Book Airを発見してしまった。

それは中古で店頭でセールしていたものだなのだけど、CPUはi5 1.3Ghz,メモリは8GBでSSD256GBのお値打ち品のものだった。

すでに古いものではあるのだけど、mobile PCとしては十分でかつ11inchiかつ非常に軽量でありつつ所有感を満たす使い回しの良さに一目惚れしてしまった。

ノートPCを求めていた訳でもないのに、たまたま通りがかった年末セールで衝動買いをしてしまったのである。

なんと愚かな。といいつつも、買ったその日からこのMBAをどう使おうかと日々立ち上げては思案しているので、やはりproduct designというのは馬鹿に出来ない。

 

娶るからには責任を持たねばならないわけで、一通り役に立ちそうなアプリは導入中である。

家は以前からカスペルスキーを使用してこのMBAにもそれを導入しているのだが、そrが原因なのかSSL接続に難があり、Googleへの接続がうまくない。

Web上を検索していると類似例は多く、解決していたりしていなかったり様々だ。

僕はといえば、カスペルスキーの設定を変更することで解決したのだけど、そう思いきや次の起動でまたダメになったりと、試行錯誤している。

もともとカスペルスキーを入れる前に他のセキュリティソフトでも同様の現象にあっていたので、セキュリティソフト関連であることは疑いがなく、しかしその根っこはいささか深いものである。

運用を含めて少しずつつめていきたいところだ。

 

その話とは全く別に、本日Magic Mouse2が手元に届いた。Majic Track padをiMacで使用していたのだけど、どうにもclikcの感触が好きになれずに、かつclickのコンポーネントが悪くなったのか反応が悪い、あるいは平坦な場所でなければうまく機能できないなど、使用感においてデメリットが上回っていたので、MouseでありつつフィンガーアクションができるMagic Mouseを試してみることにしたのだ。

 

使い始めであるためこれからではあるものの、概ね良好な印象。

mouseも薄くかつMBA同様アルミ感を兼ね備えている。

iMacにももちろん、仕事場のMacにも使用できるので、良い買い物をした感想である。

 

とりあえずは、これはからどのようにMBAを最大限活用していこうかというのが専らの思案で、巷でよく言われる、いやすでに昔のことかもしれないが、スタバでドヤ顔というのをやってみたい気持ちにかられている。(まだやっていない)

 

 

 

 

 

 

羊の歌

"爆撃機が頭上にあったときに、私は孤独であった。爆撃機が去って後の数日ほど、私が孤独でなかったことはない。"

 

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著・加藤 周一 

 

氏の半生を綴った、記憶を辿りながら書かれた本書。

途中途中に著名人、と言っても私自身はその人々を知らないのだけども、高名である方々が少なくないはずで、そうした人物と日常の中で一緒に過ごしたりすれ違ったりをしていることにも触れられる。

氏の視点から見ていた光景や、その内省はとても客観的で論理的な判断が常に下されてきたし、振り返ってみれば小さい頃からなんとなく感じてきたことの再認識と、そのことの吐露、あるいは客観的分析というのが語られている。

いずれの場面も当時の生活の様子や時代の雰囲気というものが紙面に漂っており、かつ氏の分析に富んだ視点というものを読むことができる。

 

本書で出てくる各著名人の代表作や人のなりというものを知っていると、当時の時代描写の距離感がぐっと近くなりそうな気がする。

もう一つ、印象的だったのは演舞のことだ。

空襲に備えて灯火管制が始まる状況の中、氏は新橋演舞場の切符を持っていたのでふらりと行ってみた。興行は中止と思いきや、観客まばらな会場で、三味線と古靭太夫の声が鳴り響く。

外にある軍国日本の観念の世界とは全く別の世界を、全く譲らず、鮮やかに堂々と、悲劇的に、その表現の世界があったのだと、氏は回顧する。

権力者達が始めた無謀な戦いを冷ややかに見つめ、しかし世間の空気は確実に軍国主義に染まって行く中で、氏はまたしてもそこで客観性を知覚したのだろう。

 

本書で書かれる文章は教養の高さが実現するものではあるけれど、少しでもそれを吸収したいものだなぁ。

 しかし、本書と同じように小さい頃から解雇して自身の経緯を書けるかというと、書けないよねぇ。

 

 

 

 

日本酒

突然だが、最近日本酒にはまっている。

暇さえあれば日本酒の事を調べたり、銘柄の評判を検索したりと、日本酒へ傾倒しがちである。

きっかけは美味しい日本酒を飲む事があったから、というのと、友人が日本酒分野の開拓をしているのに刺激を受けたから、というところだろうか。

もう一つは「夏子の酒」を最近読んで、日本酒作りとその人間模様に感動を覚えたからだろうか。

 

傾倒ぶりが徹底しているわけではないが、しかし自らの行為を振り返れば愚かだなぁとは思う。

近所の酒屋に出入りするようになったり、週に1回程度は日本酒を買いにいったり、それでは空き足らず、気になる銘柄、あるいは飲んで気に入った銘柄を近所では手に入りらないからといって通販で計7,8本買ったりなどとしている。

実に愚かである。

 

これは何であろうか。気になったものへ簡単に手を出す購買行為。その商品が時期限定的なものであれば焦燥感を覚えるほど、手に入れたくなる。

これは物欲なのだろうか。

人は満たされないと食欲に走ると聞く。

酒への欲は現実逃避の道なのだろうか。

そう問うと、今の自分の仕事ぶりに満足しているわけではないし、いまの職位に充実感を感じているわけではないのは事実だ。

しかし出来ないことを出来ないままにして他の事に逃げるのは甘えなのだろう。

だからといってこの日本酒熱が虚構であるとは言いがたく、これを区別して混同することなくそれぞれの技術を磨く事に力を注げば良いのかもしれない。

 

夫婦のカタチ

今日は友人と仕事帰りに寄り道。

色々と話す中で、結婚についてを考える話となる。

彼は自分のキャリアを戦略的に計画することに能動的であり、ある意味では結婚もその手段の一つでもあるのだ。

こう書くと冷徹漢のようにも聞こえるが、その手段だけを考えた訳ではない。

彼は、女性から縛られるのは嫌いなタイプで、自分の時間や趣味に優先順位がある。そして大抵こうした男は、エネルギーがあり女性にモテる。なので、自分から動かずともある程度供給はあるし、自分から行きたいと思うときは恋愛感情ゲームに勝つことその点にある。

だからといって女性に冷たい訳ではなく、紳士的である。

このような彼は、共に過ごす女性として必要以上の干渉を受ける事を嫌う。そしてそれは僕も同意する。

そのため、そうした自分を受け入れてくれるパートナーであることが望まれるのだ。

そうなると、どんな時でも暖かく見守ってくれる聖母タイプか、同じように自分の時間や趣味が優先のタイプかとなり、後者と出会うのである。

そうしたパートナーとの生活は、お互い、お互いの時間を過ごす事を優先あるいは尊重するので、普段の生活リズムはすれ違う時もあるが、お互い好きな事をできるという面では理想的だ。

(彼は彼自身で一種義務のような自分ルールを持ち、きちんとそれを守っている。その面で彼は真面目でありブレずに筋を通している。そこは楽な方に揺れたりしないのは、理性の強さで見習うべき点なのだ)

 

ここで、いわゆる従来の夫婦像を持つ人は、夫婦は一緒にいるべきだ、2人の時間をもっと作るべきだ、などとやかく言う。

肝要なのは、2人がその生活に満足していて幸せを感じ、自然であるのなら、それで良いではないかという点だ。

他人がとやかく言うのは、ただ理想像を押し付けているに過ぎない。

 

翻って僕としても自分の時間は大切だ。しかし夫婦生活を始めると自動的にそうした時間は失っていくし、それが生活リズムとして溶け込んでいくと慣れてしまう。むしろ2人の時間という生活の一部が自然になってしまっている。

(最も、妻は1人の時間が欲しいと切望するし、僕も分かるのだか…。)

そうした面から見ると、1人の時間が自然に持てるというのはとても羨ましいことである。

だからといって僕が今ある2人の時間を全て投げ出すかというとそうでも無いだろうから、やはりここは人それぞれ夫婦のカタチというものは違うのだなぁと了解するだけで良いと思うのだ。

 

世間では色んな論議のある夫婦論だが、相手を尊重することができるのであれば、それは余計なお世話の言葉で片付いてしまうようなものなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2ヶ月ぶり

の記事になる。

すっかりとサボってしまった。サボると言えるほど定期的な義務としての投稿はしていないのだけど、やはり間を空けてしまうと記録としての役割が薄まってしまう。

 

さてここ最近の2ヶ月はどんなものだったかというと、これまでに経験したことのないことをしてきた。

いくつかある内の一つに、病である。

とはいっても死に関わるようなことではないが、かといって風邪をこじらせた程度でもない。

腎盂腎炎にかかってしまった。

それも2度も。

1度目の疾患は避けられようもないのだが、2度目の疾患は自分の油断でもあると思える。

薬に頼らないような習慣の中でそだってきたせいか、自分の身体の調子が安定すると、処方された薬を飲まなくなる。軽視してしまうのだ。

1度目の治療の際のそれが、ここにきて時限爆弾のタイマーが0になったように疾患が再び現れた。

いつからこんなに身体が弱くなったのか。いや、この考えが少し古いのかもしれない。

運動習慣の無さが体力の低下を招いていることは事実であろうが、自ら必要な治療を途中で止めたのは自分自身の行いだ。

今回ばかりはしっかりと薬の服用を全うしようと思う。

 

2ヶ月ぶりの投稿がこれでは辛気臭いのだけど、戒めとして投稿しておこう。