過ぎ行く日々を少しでも。

日々の色々を記録していくトコロ。

天気の子

"世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから"

 

天気の子、観てきました。

 

前作「君の名は」に引き続きRADWIMPSが主題歌を担当しているこの作品。「愛にできることはまだあるかい」というフレーズはCMでよく耳にしていた方も多いハズ。

愛と天気と子供がどう関係するんだろう、そんなことを思いながら鑑賞した結果、受け止めるのがなかなか難しい鑑賞体験でした。そのため、ポジティブ視点とネガティブ視点に区別して、観想をつらつら書いてみました。

 

まずは、なるべくネタバレを避けてポジティブな視点で語ってみると。

さすが新海監督、美しく色彩豊かに東京都心と雨とを描き、たまに陽が指す描写は街がキラキラと反射し、覗き見る青空とともに軽やかな気分が漂う、そんなシーンがスクリーンに広がる。おなじみの各社商品パッケージが日常シーンに少しのリアリティを添え、それぞれの事情は抱えながらも、基本的には純粋な登場人物は画面に清々しさを運んでくれる。

まだ大人ではない、でも思春期真っ只中で早く自立したい少年少女が、自分たちの力で生きていこうとする様は、ネオンと人の欲望がうごめく新宿の街と対比され、健全な輝きを放っている。とはいっても子供だけ生活するには手段が非常に限られていることも事実で、本人たちの思いとは反比例して、色んな生き辛さがそこには描かれている。

(この点については、少年少女の視点からみたら、とても窮屈に思えるだろうけど、大人の視点からみたら必要な制限であり、社会的に守られているとも見て取れる訳だが)

そうした生き辛さや理不尽さに反抗し、少年は少女への愛 (と呼ぶにはまだ不確かだと思え恋心と言ってもいいと思うのだけど、時として状況がそれを育むように、困難がそれを愛へと変えるのならば、ここではそれを愛と呼ぼう、みたいな。) を示す。

僕は良くも悪くも大人な考えに染まっているので、彼らの青さっていうのは、「青いな〜」とも思ってしまうが、それを描くことにより意図してるであろう「ひたむきさ」というのは分からんでもないし、好きな子がなんでそんなことにならなきゃいけないんだ、という怒りやそれによる行動っていうのは、正に「愛にできること」の一つではある。

少女か世界か、という王道の選択が提示され、少女のいる世界で共に生きていく、という、これまた王道だが普遍的なストーリーを描いている。それでも、大丈夫。世界が変わっても人々はそこに適応して逞しく生きていくし、その選択は自分で思うほど他人は気にしていない。罪悪感を抱えるのではなく、その選択をした勇気と生きていく力、をしっかりと抱えて、新しい世界を歩きだそう。

そうしたポジティブなメッセージがそこには見れる。

しかーし、なかなか受け止めるのが難しい点が多数あるのも事実で、次はネガティブな視点で列挙したい。

ネタバレ含むのでこの先はご注意を。。

 

まず最初に言いたい。昭和か!

いや、映画なのだから、色々突っ込みどころがあったとしても、いちいち揚げ足取ったりなんだりするのは無粋だとおもっている。それらは全部飲みこんで、世界観を楽しもう、そう僕だって思う。しかし、こうちょくちょく気になるポイントがでてくると、おちおち世界に入り込むことができない。ずっと世界に入れてくれない。スクリーンと心の距離がどんどん離れてく。

で、何が昭和か、ってのは主に以下のポイント。

  • リーゼント刑事。リーゼントの時点でお察しだが、ヘアスタイルはそれぞれの好みだ、良しとしよう。主人公の男の子、帆高が補導されパトカーの後部座席でヒロンである陽菜のとある事実を知るのだが、それについて帆高が涙するシーン。助手席にいるリーゼント刑事が、「めんどくせぇなぁ..」とつぶやく。このセリフに隠されているのは、少年少女の事情を色々察して人情味を漂わせそれを抑えて仕事をしなければいけない、という、なんか漫画的な熱血的なソレである。昭和か!
  • 須賀の事務所で働く女子大生の夏美。警察署から逃げ出してきた帆高をナイスタイミングでカブによりピックアップ後、ルパン三世の不二子並に街中を逃走し、挙げ句水上をカブで走り帆高を逃がす。その背中にこう叫ぶのだ。「帆高、走れー!」昭和か!
  • 帆高が銃を構えて止めに来た須賀と対峙する。そして警察も追いつき、銃を捨てて逃げた帆高をリーゼント刑事がお縄にするのだが、須賀はそいつを殴り帆高を逃がす。帆高は陽菜に会いたい、会わせてくれ!という気持ちと、須賀は亡くした妻への気持ちが重なる点、そして刑事が抵抗する帆高を抑えつける点に、感情的になり、まさかのリーゼント刑事を殴り、帆高を逃がそうとする。突然の熱血!最初から止めるな!昭和か!
  • 銃を捨てて丸腰の高校生帆高が逃げ出すわけだが、彼に向かって、もう一人の老刑事が銃を構えて止まれて叫ぶ。アクション映画の観過ぎじゃ!丸腰の高校生に銃を向け続ける刑事て!アクションシーンはまだ続く!?昭和の刑事ものってこんな感じなの?とりあえず昭和か!

他にも細々と、納得できないシーンはある。

  • 帆高にしても陽菜にしても、島から出たい背景とか、自分たちだけで生きていくんだ、そうしなければいけない背景とか、一切説明がない。自分達だけで生きていきたい、思春期の危うい少年少女の純粋な気持ちがそこにあるのだ、としてそこはぐっと受け止めたけど、なんでそこは省いたんですかね。
  • 最初に出てくる、鳥居をくぐりながらお願いするシーンは、そもそも鳥居の前で停まるか、鳥居をくぐってから手を合わせるかが普通だから不自然に見える。
  • 神宮の花火は夜の町並みを上空からドローンのように滑空し、花火の中を通っているのはきれいだが、どこまでも花火はついてくるので、普通に街中いたるところで花火があがっている感じになるし、それってもはや神宮花火ではない。
  • 島から出てきた純朴な少年が、新宿で手にした銃をお守りがわりにずっと持っている。なんじゃそりゃ!

 先にも言ったとおり、世界観はそのまま受け取りたい。しかし、細かいところで気になってしまうのは性分なのだろうか。結局、細かいところにリアリティがでると思っているので、こうした甘々な部分が多ければ多いほど、白けてしまう。本当に細かくて些細なところではあるのだけど、僕にとっては手を抜いてほしくないところだった。

なので、結局のところ世界に入って行けず、「あーはいはい、音楽効果的に使っとけば感性刺激してそれっぽく受けての気持ちを高められるよねー」とか思っちゃう。

もーほんと、青臭く昭和的な。昭和を令和でやる、だから一周回って新鮮。だから「愛にできること」も新鮮に蘇ってくる!とか、なんだか一人で腐ってた。

 

前作のキャラ使ってファンサービスなのかなんなのか、新海ワールドを不必要に見せられている感じにもなり、もうそんな色々な要素で、オナニー見せられている感じすらあったのは、きっと僕だけなんでしょう。

こうした青くささってのが、もう僕には失われた感覚であって、それが必要だった、あるいは現在真っ最中の思春期の子どもたちには、ぐっとくるものがあるのかもしれない。

であるならば、一つ言いたいのは、警察を扱ったシーンについてはコメディタッチがすぎるんじゃなかろうか。

丸腰の高校生に銃を向けてカタルシスを煽るのは、間違ったメッセージをそこに含めないですかね。

つまり、欲望のために純粋になることは、たとえ警察だろうがなんだろうが、それを乗り越えて是になるのだ、みたいな。

この世界は狂ってるんだから、自分と信じたものだけ信じて生きていけばいいのだ、というメッセージは、とても危ういメッセージが含まれているんだと僕は思うんですけどね。特に多感な世代には。

 

ということで、なんとも受け止めるのが難しい映画でした。