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ストア哲学入門

"わたしがストア哲学を信奉するようになった最後の理由は、死が必然であり、それにいかに備えるかについて、ストア哲学をもっとも直接的に、説得力をもって論じているからだ。わたしは最近、50歳という節目を過ぎて、より大きな問題について考えるようになった。すなわち、わたしは何者か、何をしているか、ということである。"

迷いを断つためのストア哲学

迷いを断つためのストア哲学

 

 気になっていた本書、読み終えた。書き始めるとだらだらと長い記事になってしまったので、目次というものを初めて作ってみた!

興味が湧いたのなら幸いです! 

 

なぜこの本を手に取ったのか

 今の自分自身は壁にぶつかっていると思っている。
それは、これまで何となく生きてきた、生きてこれた、そのことを、これからも続けていっていいのだろうか、つまり、このままでいいの?という疑問だ。
何故そう思うのか、それは周りの環境の変化と、僕自身の能力の無さ、というものを実感しているからだろう。そこから生ずるのは、変わりたい、より良くなりたい、という欲求だ。
 
そんなとき、この一節を目にした。
 
「神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。」
 
これは、アメリカの神学者倫理学ラインホールド・ニーバーの言葉で、ニーバーの祈りと呼ばれアルコールや薬物依存症などのプログラムで活用されているらしい。
この、コントロールができるものとそうでないものを区別する、という考え方が、ストア哲学の特徴の一つであり、重要な考え方となっているようで、この一節と伴にストア哲学的な話を目にすることがあった。
 
自分をコントロールしたい、そうした気持ちが高まっているいま、ストア哲学にはそのヒントがあるのではないだろうか、こう思って僕はこの本を手にしたわけだ。
 

実は、ストア哲学という存在を認識したのは初めてではない

 しかーし!僕の中のストア哲学、というのものは、あまり良くない印象が残っていた。
というのも、かつて読んだ竹田青嗣氏の本の中に、ストア派についてこんなことを言っていたからだ。
 
ストア派の哲学のテーマは、ともに個人が自分の生をいかに肯定できるかという問題だが、生活上の問題を深く洞察してその原理を掴みだしていくと言うより、人生論的な観想に近くなっている。
 
ところで、賢者なんて本当にいるのだろうか、あるいはもし実際にいたとしても仲良くしたいと思うだろうか。「荘子」に感情を捨てて「自然」を体得した闘鶏が、木で作った鳥のように見えるという故事があるが、ストアはの言う賢者にも人間味が感じられないような気がする。もちろん彼らが否定したのはパトスだけであって、すべての感情を否定したわけではない。喜びなどは「理性的感情」として肯定された。ゼノンもアテネ市民から非常に尊敬された。しかしそれにもかかわらず賢者に魅力を感じられないのは、ヘーゲルが指摘したように、彼らの主張が観念的であって、生きた人間としてありありとイメージできないからである。
 
こういう紹介を読んで、ストア派っていのは何か無機質的な、冷たい印象を受けたのを頭の隅で覚えていた。そして生き方指南のようなもの、それってつまり自己啓発の類であり、「ケッ!自己啓発なんて自分がないやつのやるもんだぜ!」と当時僕は考えていたのだが、年月が流れて今、ストア哲学の本を手にとっているというのは、色々な気持ちが去来する。
 
 

哲学との記憶

 僕と哲学について少し触れてみたい。(といっても書かなくても良いことだらけだけど、、)
 
僕自身、本を読むようになって、哲学に興味を持った人間だ。その理由は、過去の偉人達が行ってきた、"世の中の難題に対する考え方"、というものについて、それに至るプロセスや理論を知ることは、有意義であるように思われたからだ。
これにより僕は、哲学の入門書やソクラテスプラトンキルケゴールデカルトスピノザショーペンハウエルニーチェやカントやハイテガーやらやら、といった書物を買ってみては、なんとなくわかった気になったり、読み続けるのに挫けたり、とにかく頭でっかちになっては忘却するという愚を犯していたように思う。
日々は忙しく、どんどん過ぎていく。細胞は入れ替わり読んだ内容の記憶も薄れ、当初思っていたような「考え方を知る」という目的が果たせたか、と聞かれると、答えられない。
そうした部分もあるような、でもあるとまでは言い切れないような、そうした歯切れの悪さを感じるのは、結局の所自分の腹に落ちていないことが多いからではないか。
 
つまるところ、哲学だけでなく、本を読みそれを血肉にする、ということが出来ていないのだ。
これはショーペンハウエルが「読書について」で語っている、毒の話に繋がるんだ。
しかし、これって現代に限った話ではないらしい。エピクトスもこう言っていたそうだ。
「大工は学ぶことによって大工になり、船漕ぎは学ぶことによって船漕ぎになることをわたしたちは知っている。では、正しい行動をするということにおいても、そうしたいと願うだけでは十分ではなく、そうすることを学ばなければならないと考えられるのではないか。今足りないのは、理論ではない。理論はストア哲学の書物にたくさん書かれている。では、何が書けているのか。それを実践し、行為によって実証する人だ」
 
はい、その通りでございます、となる他ない。
一方で、行動しなければ何も変わらない、というのは誰だって知っている事だ。
問題は、なぜ行動に移せないか、であり、なぜ挫けて元に戻ってしまうのか、である。
 
前者については、ベイビーステップを、後者については、一日の振り返り時間を持つ、ということで対策になるような気がしている。
 
 

で、この本について

さて、長々書いてしまったが、あとちょっと本についてを書き足すと。
ソクラテスを祖とし、ヘレニズム哲学から近代以前の哲学は、いかに生きるべきか、という問いに対する答えを考え続け、ギリシア語で幸福を意味する「エウダイモニア」、いわゆる豊かな人生を送ることを探求した。そしてそれに対する解釈は人それぞれ多種多様であるわけだが、その一つにストア哲学がある。
 
ストア哲学は、宗教や原理主義とは異なり、他の学派からの批判や新しい発見を取り込もうとする、寛容な姿勢がそこにあるそうだ。
著者は、「人生の指標となる哲学を身に着けたり、それに順応したりすることは、最終的に選ぶどんな哲学よりも重要だと私は思う。」と語り、何がなんでもストア哲学だ!と言うつもりはないとしている。
僕はここに好感を持つ。
 
このストア哲学には3つの原則がある。
欲求、行動、受容がそれであり、それぞれに必要な美徳として、勇気/自制、公平さ、(実践的な)知恵があるとする。
そして、この美徳を日々哲学すること、言い換えると、日々実践することが、豊かな人生を送るために必要なこと、となる。
ここに、ストア哲学は実践の哲学と言われるポイントがあるのだ。
そもそも「いかに生きるべきか」なのだから、良しとする行動をとらないと、現実にはならないし空虚でしかなくなる。
この、ストア哲学が実践する「行動」には、英雄的な逸話も本書内でいくつか紹介されている。
まさか同じようなことができるとは想像できないのだが、しかしストア哲学は実践するものである、というのは本書を読んでいると折に触れて感じるのだ。
 
冒頭で、僕には変わりたい、より良くなりたい、という欲求があると言った。
これは裏返すと、今の自分に満足していないということであり、何故かというと、怠け者で自分を律するのが下手だからだ。それによって自己評価がマイナスになる。
 
そう、自分を律したいのだ。弱いから。
そのための指標が欲しいんだ。
 
最後に怠け者の自分に、本書で登場した言葉を引用し、戒めとしよう。
 
「羊のようなことをしてはいけない。そんなことをすれば、人間性を失うことになる。羊のようなことをするとは?食欲や情欲に流されるとき、思慮や品性や配慮に欠ける行動をするとき、羊にように堕落するのではないだろうか?何を損ねるのだろうか?理性である。闘争的だったり、有害だったり、怒ったり、無礼だったりする行為によって、わたしたちは堕落し、獣になるのではないだろうか?」
 
P.S.
ふと思った。
例えば休日、あるいは休日でなくとも、お酒を飲む、この行為は快楽に流されるため、羊になることに当たる行為だろうか。
きっとそうなのだろう。食欲、情欲に流されず、ただ理性で抑制し、更にやるべき事に励むべき、と。
これがストア哲学の禁欲的な側面だ。
僕は、そこまでストイックになりたいとは思わない。だからストア哲学的実践をしない、という意味ではない。
自分に合ったやり方、というのは必ずあるはずだ。それを見つけていきたい。