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妻を知る

自分のことでうだうだ書いていたが、昨日は妻のことで理解が明確になったことがあった。

妻はハイリー・センシティブ・パーソン(Highly sensitive person)、通称HSPと呼ばれる特性を自身が持っていると、最近になって自覚したとのことだった。

まず、HSPとは何か。学術的な定義は難しくてよく分からんのだけど、僕の認識では、「高い感受性を持つことで、外部から受ける情報量が通常の人よりも多量で深い特徴を持つ」ということだ。

これによるメリット・デメリットは色々あるようで、色々なことに気づけ感情豊かである一方で、常に大量の情報が流れ込んでくるのでいつも高負荷処理状態になる、など。

Wikipediaの概要と特性の欄が非常によくまとまっていて的を得ているので、引用させてもらうと以下だ。

ハイリー・センシティブ・パーソンHighly sensitive person, HSP)とは、生得的な特性として、高度な感覚処理感受性(あるいは、カール・ユングの造語で言えば生得的感受性[1][2])を持つ人のこと。共通して見られる特徴として、大きな音、眩しい光・蛍光灯、強い匂いのような刺激に対して敏感であることが挙げられる。HSPはしばしば、豊かで複雑な内的生活を送っているという自覚をもっている。物事に対して容易に驚き、短い時間にたくさんのことを成し遂げるよう要求されると混乱するという性質を持つ。

属性・特性の欄にはこうある。DOESという言葉は覚えておこう。

HSPの属性は、「DOES」という頭文字で覚えることができる。

  • 処理の深さ(Depth of processing)
  • (他の人と比較して容易に起きる)過度な興奮(Over aroused)
  • 感情的反応性・高度な共感性(Emotional reactivity and high empathy)[26]
  • 些細な刺激に対する感受性(Sensitivity to subtle stimuli)

HSPである学生は、他の人々とは異なる仕方で学習する。HSPは些細で細かい部分に注目し、それについて長時間考えを巡らせるが、学習課題に対する理解を示すまでには時間がかかる。もしHSP学生が授業内の議論に貢献していないとしても、必ずしもその学生は理解していないとか、シャイであるとは限らない。HSPはしばしば、一般的な見解とは異なる洞察を抱くが、それを披露することは恐れる。なぜなら、口に出してしまうことは自らにとって刺激が大きすぎるからである。感受性の高い学生を教える際のコツが知りたいのであれば、『The Temperament Perspective』[27]や『The Highly Sensitive Person』[28]の最後の部分が参考になるだろう。同様のことは職場にも当てはまる。HSPは素晴らしい働き手になりうる。細部をよく見ており、思慮に富み、また忠実であるからだ。HSPが一番活躍するのは、静かで落ち着いた環境が整っているときであることが多い[29]HSPは監視されていると力を発揮できないため、昇進から漏れることもある。HSPは社交性が乏しい傾向にあり、自分ひとりで処理できる経験を好む傾向にある[28][30]無意識的あるいは半無意識的に環境内の些細な事柄を処理できる能力から、しばしばHSPは「ギフテッド」や「第六感」を持っているように見えることもある。

 

もともと自分の感受性の高さに自覚があったが、その内的疲労や混乱にいつも戸惑っていたと妻は言っていて、HSPという定義があることで、とても納得したようだ。

自分を理解するのに(正しい)ラベリングがあると、人は安心する。妻は最近この言葉と意味を知ってから、自分の理解が高まったと言っている。

自分で言うのもなんだが、僕自身は考えも身体も鈍感な方で、彼女とは対極にいるのかもしれない。ただ、そのことでお互いバランスが取れて良いね、と言えるようにはお互いのことを分かってはいる。

分かってたいたつもりだったが、分かっていなかったことがあった。

それは、妻はシングルタスクでないとうまく対処できず、マルチタスクだと情報量が更に多すぎてうまく処理できなくなる、ということ。

例えば5つの工程に分かれるタスクAがあったとして、A1からA5のことをやるときに、A4までやって、あとはA5をやるだけの状態とする。そこに4つの工程に分かれるBという違うタスクがあり、A5のついでにB3が一度にでき、そのままB4にいけるので、B2も予めやっておけばいい、などと外から見ると思うのだが、Aというタスクを終わらせないと、Bというタスクに移れない、ということらしい。

メモをすることでその整理はつけられるようだが、一旦立ち止まってリスト化しないとその整理もつかず、頭の中だけでは混乱するらしい。

あれやこれやと考えて思考が発散してまとまらず混乱する、焦る、というのはわかる。そのためにメモを取って客観視する、というテクニックも本人は知っている。

ただ、そうした一つ一つの負荷、というものがどうやら違うらしい。なぜなら、インプットの情報量が違うから、そもそもシンプルにする過程の深さが違うのだ。

こうしたことを、昨日初めて会話して理解できた。

もう一つ知ったことがあって、それはこうした特性を人に語るときに、涙が出てしまう、ということ。自分でも何の涙かは分からないのだという。これはWikipediaにかかれているように、口に出してしまうということは本人への刺激が強すぎる、というのがあるようだ。

こうした会話ができたことはとても大きくて意義のあることだった。

発見、という言い方は適切ではないけれど、こうした会話によって鈍感な僕でも、そうした理解と知識が得られるのだから。

 

こうした経緯で、昨日の会話はとても良かった。

この会話はどうやって引き出せるか。それはふとしたタイミングや状況によるものだ。

僕ら夫婦はいま、あることでちょっとチャレンジをしようとしている。正直色々な不安はあるのだけど、でもやらなかったことの小さな後悔を残すようなら、やったほうがいいよね、ということで始めたことだし、これについては妻がきっかけを作ってくれた。

このきっかけのことを思ってみても、僕は断固!というような明確な意思を示してはいないけれど、態度や雰囲気などから、妻は情報を受け取って考えてくれているのだなぁと思う。

ちょっとふわっとした話を出してしまったけど、やはり相手を理解するには、僕のような鈍感なタイプには、会話が一番のようなのだ。