自分を知る3
直近の記事は一ヶ月前に書いたものだ。ブログの記事を書こうと思いそれを読んだら、今の地点と変わらないことに絶望する。実を言えばこれはお家芸で、もう何年もそういうことを繰り返している気がする。思い立っては挫折(というほど良いものではない)し、スタートに戻る。
スタート地点をぐるぐる回っている。
感情の起伏が少ないあるいは無い、と前回書いた。いま読んでいる本が少しだけワクワクするものだ、とも書いた。
その本によると、人生を自分の意思でコントロールしていると自覚しているほど、人生の幸福度は大きいらしい。その本には自己採点表もついており、僕は見事に受け身体質なわけだ。そりゃ幸福度も相対的に低いのだろう。
では変えたいのか、そりゃ変えたい。しかし努力は限られている。そう、真面目系クズ、のようなものだ。
と、まーたネガティブなことを書いている。
今日ここに書こうとしたのは、自分のなりたいもの、者、とは何か。
自分のやりたいこととは何か、だ。
感情の起伏が乏しいのは、熱が、熱意が、情熱が、僕に無いからだ。そう思う。
僕が情熱がある状態というのはどんな時だろうか。それは、動画制作のとき、だった。
過去形にしたのは、ここ最近で設備投資をしたものの、肝心の動画制作に対する取り組みが熱心ではないことがあるからだ。僕のかろうじてのアイデンティティでもある写真や動画制作が、昔より前のめりになれなくなっている。ツールの変化にまだ慣れていない、のもある。
それもあるのだが、昔自分が嫌った、つまらない人間、面白みのない人間、に向かっているようで、怖い。
事実、いまそう自分のことを思う。
何度もスタート地点に戻り、成長もなく、情熱を傾けるだけの仕事もプライベートもない。
ただ周囲と時間に身を委ねて流されていく人生。
これでいいのか。
何が楽しいのか。
唯一救いなのか致命的なのか、元来僕自身は鈍感なので、そこまで深刻には考えていない。考えていないのだけど、茹でガエル状態で、死に体ではないのか、とも思う。
結局ネガティブ思考は止まらない。
自己肯定感の本は読んだけど、心持ちをどう前向きにするか、であって、こうした自分のことを考える文章では、どうしてもネガティブによってしまう。
ポジティブな文章に変わる変化が見られるよう、スタート地点から早く動き出さねばいけないのだ。