過ぎ行く日々を少しでも。

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自分を知る

自己分析を真剣にしたことはあるだろうか。

僕はある程度までしかない。

ストレングス・ファインダーの本や数多ある占いの本・サイトなどで、自分を外側から知る、ということはやったことがある。

どれも、へぇ〜、というものや、確かにあたっているかも、というものまでまちまちだが、得てして娯楽止まりで、時間が経てば忘れているようなものだ。

多分、大抵の人は同じではないだろうか。

人はみな自分のことは実はよく知らなくて、占いなどで特定の「型」に当てはまりたがっている。それは分かりやすい型があったほうが、それを共通認識として他の人とも会話ができる。不安定で未知のものより、安定して既知のもののほうが、安心するのだ。血液型占いも同じ類のもので、よく言われるように、日本人の好みとして、そうしたタイプ分け、というのが好きなのかもしれない。

話がちょっとずれたけど、僕がやりたいのは深い自己分析だ。

といっても切り口が沢山ありすぎるので、試しに問を立ててみよう。そこから浮かび上がってくる自分の像があるかもしれない。

 

「自分はどういう人間だと思うか」

僕は自分自身は冷え切った人間とたまに思うくらい、他人に対して結構ドライなところがある。それは自分でも、もっとウェットになりたい、とも思うのだけど、「面倒」という壁がそこに立ちはだかり、結局人に対して積極的に関わろう、という姿勢がなかなかた生まれてこない。むしろ、他の人が面倒事を抱えているとき、助けになりたいという思いがある一方で、なるべく面倒事には巻き込まれたくない、という気持ちも働き、ときに中途半端になったり、あるいは他の人がヘルプしているのを見て、じゃあ自分は大丈夫かな、とその場を後にしたり、あるいは面倒そうだからとひっそりしている、ということは間々ある。電車で人に席を譲るという行為もしなくなって久しくなり、自分の中に、潤いというものが枯渇しているのを感じる。余裕がないというか、心が狭くなったというか、小さな人間になったというか。

これは年を重ねていくにつれ、ずる賢くなる、という部分もあるのだろうとは思う。しかしそれだけが原因ではないし、積極的に関わる人もいるので、やはり心の持ちようなのだろう。

そうしたことで、自分自身に絶望を感じることもある。自分は何てちっぽけな人間なのだろう、と。

こうした諸々をぐっと堪えて、積極的に関わってみる、自分に潤いを取り戻すために、行動してみる、ということを思ったときに、「面倒」という感情が行く手を拒むのだ。

面倒だからやらないのなら、結局変わりたいと心底思っていないってことじゃないのか。自分を卑下しながら、しかし日常の惰性に流されながら、ずっとうじうじしているのか、と。

アドラー的に考えると、ずっとうじうじしていることに、僕はメリットを感じている、とも考えられるのだろう。僕が望んでうじうじしている。それは、変化が少なく、消費エネルギーも小さく抑えられる生き方。物事に積極的に関わろうとすると、それだけ変化もあるしエネルギーも使う。人に席を譲ることでさえ、ドキドキしてエネルギーを使うのだ。そうした感情の起伏からなるべく距離を起きたい、なるべくフラットでいたい、というのが僕の望みなのだろうか。

そんなの楽しくない、生きている意味があるのか、そんな声が聞こえる。

でも、辛くもない、しんどくもない、のだ。

自分に絶望して、自分を卑下して、と先程書いたけど、もうそれに慣れてしまっている自分がいるのではないか。

それは即ち、心が死んでいるのではないだろうか。

心の起伏が少なくなって、喜怒哀楽を純粋に味わえるような心の持ちようではなくなっているのではないか。

思い当たる節はいくつかある。素直に喜ぶことは恥ずかしく思うし、ポジティブのリアクションは僕は弱いほうだ。感情を素直に表現する、ということが苦手なのだ。

それが自分。

きっと、なんとなくだけど、「有り難い」ということが、頭では分かっていても心では分かっていない、そんな状態のように思える。

 

僕は自分を変えたいか?感情を素直に表現できるようになりたいか?心の起伏を取り戻したいか?物事に積極的に関わっていく強さを持ちたいか?

 

今日のメモはここまで。