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ツァラトゥストラはこう言った

 "わたしの悩みにせよ、ひとの悩みへのわが同情にせよ、そんなものがなんだというのだ!わたしはいったい幸福を追い求めているのだろうか?私の求めているのは、わたしの仕事だ!"

 

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)

 
ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

ツァラトゥストラはこう言った 下 (岩波文庫 青639-3)

 

 

僕がこの本を読もうと思ったきっかけは、とある卒業式の式辞が話題になったからだ。

知っている人も多いと思うが、式辞の中で本著内の言葉が引用されている。 

それは以下だ。

きみは、きみ自身の炎のなかで、自分を焼きつくそうと欲しなくてはならない。きみがまず灰になっていなかったら、どうしてきみは新しくなることができよう!

 平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞 - 総合情報 - 総合情報

 

以前にニーチェに関する本はいくつか読んでいたものの、いずれも間接的な本であり、原著は読んでいなかった。

この祝辞を知り、いよいよ読むか、という気になったのが始まりだった。

しばらくして本を手にしてから、ひと通り読み終わるまでには多くの時間を要した。

難解な内容を前に集中力を欠いたり、あるいは瞼が重くなったりと、中断に次ぐ中断を重ねる読書をしてしまったものの、なんとか最後まで読み切ることができた。

とはいってもイコール理解したということでは勿論無いのだけど、雑感を書いておこうと思う。

まずよく知られているように、本著で大きなテーマになっているのは超人思想であり、永遠回帰である。

超人とは、自分を焼きつくす稲妻であり、狂気である。燃え尽きた灰から生まれた創造者であり、人間を超越したものなのだ。

これはいわば、「神は死んだ」時代において、信じるものを失い、ニヒリズムルサンチマンなどに覆われ憂鬱な空気に満ちている人間に「否」と言い、戦いそして克服せよという思想である。

物語のはじめ、ツァラストラは、そうした知恵を山奥で10年かけて手に入れ、それを人々に分け与えようとして町へでる。

ツァラストラが人々をどう捉えていたか。長いけど引用すると以下だ。

まことに、人間は汚れた流れである。

汚れた流れを受けいれて、しかも不潔にならないためには、われわれは大海にならなければならない。

見よ、わたしはあなたがたに、超人を教えよう。超人は大海である。 あなたがたの大いなる軽蔑は、この大海のなかに没することができる。

あなたがたが体験できる最大のものは、何であろうか?

それは「大いなる軽蔑」の時である。

あなたがたがあなたがたの幸福に対して嫌悪をおぼえ、 同様に、あなたがたの理性にも、あなたがたの徳にも嘔吐をもよおす時である。  

あなたがたがこう言う時である。

「わたしの幸福は何だろう!それは貧弱であり、不潔であり、みじめな安逸であるにすぎない。 わたしの幸福は、人間の存在そのものを肯定し、是認するものとならねばならない!」  

あなたがたがこう言う時である。

「わたしの理性は何だろう!それは獅子が獲物を求めるように、知識をはげしく求めているだろうか? わたしの理性は、貧弱であり、不潔であり、みじめな安逸であるにすぎない。  

あなたがたがこう言う時である。

「わたしの徳は何だろう!それはわたしをいまだかつて熱狂させたことがない。 わたしの善、わたしの悪に、わたしはなんと退屈していることだろう! すべては貧弱であり、不潔であり、みじめな安逸であるにすぎない。」

あなたがたがこう言う時である。

「わたしの正義は何だろう!どうみてもわたしは燃え上がり、燃え尽きる者ではない。だが正義の人は、燃え上がり、燃え尽きる者だ!」

あなたがたがこう言う時である。

「わたしの同情は何だろう!同情とは、人間を愛するものがはりつけにされる十字架ではないのか?だが、わたしの同情は、すこしもわたしを十字架にかけない!」

 

当然ながら、人々は彼を笑い退け、聞く耳を持たない。

その後彼は、彼自身の目指す道に従うものだけに説くべきだと悟り、そのために町で説教をし、山に戻って時間を置いて、再び町へ出る、という工程を経る。

彼に従うもの、彼の生きた道連れにふさわしいものを出現するのを待ったのだ。

一方で、彼自身も超人に至る道の途中であり、本書では彼が超人へと変質することで結実する。

永遠回帰は超人と対になる人生観というか人生に対する姿勢のようなもので、この人生がそっくり同じように永遠に繰り返すことになろうとも、それを肯定することができる、生への力強さを言っている、のだと思う。

つまり、人々がもつ小さな美徳や安心よりも、自己を克服し人間を超越せしめんとする、戦いの思想を語っているのだ。

そしてそこに見るのは、この人生よもう一度!と叫ぶことのできるような、絶対的な肯定感、人生、そして自分自身への、「然り」である。

 

良く言えば、力強い、現状を打ち破るような、前向きな考え方だ。

しかしそれは自分自身に向けられた矢であり、過酷な道のりなのだ。

そこに他者への寄り添いや支えあい、あるいは社会的営みというものは無い。

むしろ、それは病的なもので、嘔吐すべきものであるからこそ、超人への道のりは快癒の道だとさえ言われている。

 

激しい、実に激しい思想だ。

しかし一方で、自分と向き合い乗り越えることでしか、本当の人生は手に入らないということを語っているようにも思う。

ニーチェとは、これまでの価値を破壊するために生まれた稲妻であり狂気の哲学の人であり、自由を意思する、自己を絶対的なものへと押し上げる実在主義の人だった、ということだろうか。

 

ニーチェアフォリズムは色んな書籍で見ることができる今日この頃。一時期ブームにもなってたよね。僕は手にとってはいないけども。

本書でも様々なアフォリズムが散らばっている。

ショーペンハウエルの影響を受けたと言われるニーチェは、ショーペンハウエルと同じようなことを言っているので、ここであえて抜粋する。

嗚呼、耳もとい眼が痛い。。

すべての書かれたもののなかで、わたしが愛するのは、血で書かれたものだけだ。血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。

他人の血を理解するのは容易にはできない。

読書する暇つぶし屋を、私は憎む。

(中略)

誰でもが読むことを学びうるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることをも害する。

 

 実際のところ、僕らは他ならぬ自分の人生を生きることしかできない。

この人生をどう生きるかは、自分次第であり、この人生を、本当に自分のものにする人というのは、実は多くはないのかもしれない。僕を含めて。

こうして言葉にするのは簡単だ。

実際のところ、それがいかに難しいことか。

 

かつて世界は「汝なすべし」と語られた。

しかし獅子の精神は「我欲する」と言う。

これにより獅子は自由を奪取し、自分の意思を意思する赤子に変化し、自分の創造主となる。

この聖なる肯定が、世界を取り戻し、「汝なすべし」へと昇華する。

 

ニーチェが語るこの変移のためには、僕自身を焼きつくし灰にならなければいけないようだ。

僕の中の炎は一体なんだろう。

 

P.S.

知恵袋で面白い視点があったので参考までにぺたりっと。

ニーチェと実存主義の関係よくニーチェが西洋のニヒリ... - Yahoo!知恵袋