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キルケゴール 「現代の批判」

 

現代は本質的に分別の時代、反省の時代、情熱のない時代であり、束の間の感激にぱっと燃え上がっても、やがて小賢しく無感動の状態におさまってしまうといった時代である。

 

現代の批判―他一篇 (岩波文庫 青 635-4)

現代の批判―他一篇 (岩波文庫 青 635-4)

 

 

文学評論(1846年)の中で、「日々の物語の作者」という匿名作家の小説「二つの時代」を評論した作品であり、本著「現代の批判」に収録されているのはその第三章にあたる箇所だという。

訳者あとがきにあるキルケゴールの話が興味深い。

1846年5月5日はキルケゴールの満33歳の誕生日であり、そこから一年もしないで死ぬものだと彼自身は信じて疑わなかったそうである。

そのため、彼は1842年から4年3ヶ月にわたり、"ただの一日の中断もない緊張"の中で、新聞への数々の寄稿や単行本だけでも15冊と、ひたすらに書き上げたそうだ。

ところが1846年の1月に諷刺紙「コルサル」でキルケゴールを誹謗する漫画が掲載されたことで、コペンハーゲン市民から笑いものにされるという歴史があったらしい。

公衆の嘲笑の目にさらされ、嘲りの言葉も浴びせられるなどの経験を経て、誰も助けてくれないその状況から自身を「単独者」であるという自己認識を深め、「衆は虚偽である」という命題が彼の中に生まれた。

自身の死を確信し、筆を置いた彼は人里はなれた場所で牧師として心穏やかに過すことを望んでいたが、1847年に著作活動を再開する。

その契機になったのは、コルサル事件の流れで単独者たる認識を深めていく点と、他方、説教集を神の啓示により書いたと語り協会に罷免されたというボルンホルムの牧師アドラーの著者を読み、"啓示によって語る権能を与えられた者はいかなる人であるべきか"という問いへの追求により、キリスト教の諸概念をより一層と理解していくという点である。

後者の追求は、本書に"天才と使徒との違いについて"として収録されている。

 

こうした背景を読むことで、キルケゴールがなぜ外面的なものに背を向け、内面性に力を注いだのかが分かる。

社会や共同体に期待するようなことは無くなり、自分自身のことが問題であると定めた。だからこそ、世の一切を説明しようとする、外へ関心を持つヘーゲル哲学を敵視するような文が散見されるのか。なるほど。。

 

本文は先の通り小説論評を被った、キルケゴールが発信する社会批判であり、それは今現在においてもなるほどと思わせる説得力がある。

 

革命時代、つまり情熱の時代は、イデーのために強奪や破壊をも行うときでさえ、けっして公衆というものは存在せず、そこにあるのは党派であり具体物なのであるが、一方、現代には没個人たる、(何者かによる)水平化の産物として公衆があり、この公衆とはなんの中身もない、奇怪な無である、と語る。

 

そうした現代の批判から、いくつも気になる文言を見つけることが出来る。

その全てを抜き出すことは大変なので、一部を以下にメモ書き。

それでも十分に多いのだけども。。

 

一世代、一国民、一国民議会、一共同体、男一匹、これらはなにほどかの意義をもつものであるのだから、あくまでも責任を負っており、無定見であったり無節操なことをやったりすれば、それを恥じるということもありうるが、公衆はどこまでも公衆のままである。一国民としても、一議会としても、一個の人間にしても、もはや以前と同じものではないと言わざるをえないような変わり方をするかもしれない。ところが、公衆のほうはまるきり正反対のものになりながら以前と同じもの---公衆なのである。(中略) 近代を古代からく絶対的に区別するものは、このように、全体が具体物ではなくて抽象物になっているということであろう。

矛盾の原則を排除するということは、人間の生き方としてみると、自己矛盾の表現である。あれかこれかのどちらかを選ぶという絶対的な情熱があってこそ、個人は自分自身との一致を決意することができるのだが、その情熱の中にある創造的な全能の力が、分別的反省の外延性に一変してしまうのである。あらゆる可能なことを知り、そしてあらゆる可能なものであることになる結果、自分自身と矛盾するにいたる、すなわち、まったくの無である、ということになるからである。

矛盾の原則というものは個人を力づけて、自分自身に対して忠実ならしめるものである。(中略) つまり、自分自身と矛盾しながらあらゆるものになるよりは、どんなちっぽけなものであってもよいから自分自身に忠実でありたいと思うのだ。

おしゃべりするというのはどういうことであろうか。それは、黙することとかあることの間の情熱的な選言を排除することである。本当に黙することのできる者だけが、ほんとうに語ることができ、ほんとうに黙することのできる者だけが、ほんとうに行動することができる。沈黙は内面性である。(中略) 沈黙のうちに己自らを省みているということが、社交上の教養ある談話の条件であり、内面性をねじまげて外へ向かせるのが、おしゃべりすることであり、教養の欠如である。

原理というやつも、途方も無い怪物みたいなもので、ごくつまらない人間でさえ、ごくつまらない自分の行動にそいつを継ぎ足して、それで自分が無限に偉くなったつもりでいばっていられるといったようなものである。平々凡々たる、とるに足りない人間が「原理のために」いきなり英雄になる。

理屈をこねるというのはどういうことか? 理屈をこねるというのは、主体性と客観性の情熱的な区別が排除されていることである。屁理屈は抽象的な思惟としては、弁証法的な十分な深さをもたない。また意見や確信としては、個性の純血種ではない。(中略) 男らしい男なら、一定の専門に属する事柄についてしか意見をもつことができず、一定の人生観にもとづく一個の確信しかもつことができないが、屁理屈屋はありとあらゆることについて理屈をこねるからである。

今日、われわれはいろんな人々と語ることができるし、彼らの言うことがたいへん分別のあることだと言わざるをえないが、そのくせその会話は、まるで無名者と話しているかのような印象を与えるのである。同じ人間がまるきり正反対のことを言うことができ、その人間の口から出たのではその人間自身の生き方に加えられることこのうえない辛辣な諷刺となるようなことを、平気で口にすることができるのである。(中略) たくさんあるそんな発言を全部寄せ集めてみたところで、とうてい一個人の人間的な談話ほどのものになりはしない。(中略) ついにはそれがだれの発言なのかといことなど、まるでどうでもよいことになってしまう。この事情は、一個の人間として語るという点からみると、原理のために行動するというのと、そっくり対応している。そして公衆というものが、一個の純然たる抽象物であるのと同じように、人間の談話も結局はそうなってしまうだろう。もはやほんとうに語ることのできる人は一人もいなくなり、客観的反省というやつがだんだんと一種の雰囲気のようなものを、抽象的な音響を沈殿させて、これが人間的な談話を余計なものにしてしまうのだろう、機械が労働者を余計なもににしてしまうように。

ひとりの人物としてあらわしてみると、(中略) 人生いかに生くべきかといった課題は現実の関心を失ってしまい、成熟して決断となるべき内面性のこうごうしい成長を育むような幻想などありはしない。人々はお互いに好奇の目を向けあい、みんなが、決断できぬままに、かつ、逃げ口上をちゃんと心得て、なにかやる人間が現れるのを待望し------現れたら、そいつを賭けの種にしようというわけなのだ。

社会性のイデーとか共同体のイデーとかが、現代の救いになるだろうとは、思いもよらないことである。すなわち、むしろ反対に、それは個人個人の啓蒙が正しくおこなわれることができるために出現せざるをえないスケプシスなのであって、そこで各個人は滅んでゆくか、それとも抽象物にきたえられて宗教的に自分自身を獲得するか、そのどちらかなのである。 

 

キルケゴールの背景を知れば、言葉の味わいもより一層深いものになる。

苦しみを味わっても尚、「著作活動という行動」をとれたのは、彼を支えた情熱があったからで、それは生きる力だったのだろう。

その情熱の源泉は、キリスト教への信仰心であったのだろうか。

矛盾を克服して自分自身を獲得しようとする、その力そのものだったのだろうか。

 

キルケゴールの哲学を理解できているわけじゃないけれども、少なくとも読み物として、彼の主張するところは、彼の背景を含んで人間個人としての味わいあるコンテクストであり、血の通った語りであると感じさせる。

 

もう一つの啓示に関わる内容は、キルケゴールキリスト教の理解を深化させるきっっかけとなるものに位置するようだ。僕自身はキリスト教の理解は無いため、これについて書けることは無い。