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「読み」の整理学

文章の意味として、かならずしも、その筆者の考えが最も正しいという保証はない、ということを知るのは、本当に読むことを考えるとき、きわめて重要な問題である。

妥当な意味とは、存在するものではなく、発見されるものである。

 (本文より)

「読み」の整理学 (ちくま文庫)

「読み」の整理学 (ちくま文庫)

 

 

読むこと自体に目を向けた本。

 

そもそも、読むとはどういう事か。普段僕らが本を読んでいるのは、どういう「読み」をしているのだろうか。

筆者は、「読み」をアルファー読みとベーター読み、との二種類に大きく分ける。

アルファー読みは文字をそのまま読み、字面通りの意味を受け取る読み方で、既知を読む方法とも言われる。

文字を読む際に、その単語単語は僕らが知識として知っていたり経験上知っている事柄を通して読まれるので、既に僕らが集めた既知の集合のなかから、その事柄を引き出して文章を了解するのだ。

自分の持っている情報や認識を引き合いに出すので、しらずしらずに、自分に寄せている、とも言える。

例えば、桃太郎の話でいえば、どんぶらこどんぶらこと流れてきた桃から生まれた桃太郎。アルファー読みは、これをそのまま受け取ることだ。

どんぶらこという表現は、川の上を水の流れに任せてゆらめく動きの擬音であることは分かるし、桃という単語もピンク色のあの果実であることもわかるし、そこから桃太郎ちう主人公が出てくる、というイメージも自分の中にある。

それに対してベーター読みは、文章の背後にある物事を読み解く読み方で、未知を読む方法とも言われる。

同じく桃太郎の話でいえば、流れてくる桃というのは村の外から来た女性のことであり、桃が割れ桃太郎が出てくることは、出産を意味しているのだ。

”ことばとそれがあらわすものごととの間に何ら必然的な関係はない"

ことばは記号の一種であり、皆が共通して認識できるように、物事に名札を付けたようなものだ。

人間はおのおの独自の世界に生きている。表現に関係づけて、その世界のことをコンテクストと呼ぶことができる。

その物事自体が表す意味であったり、作者のコンテクストを読み解くといったことは、自分の既知の集合の引き出しの中には入っていないのだから、未知の読み方が求められるのだ。

 

この2つを知っておくことはモノを読むにあたり大切なことであり、「読書百遍意自ずから通ず」と言うように、ベーター読みの難しさや大事さを筆者は訴えている。

加えて、昔と現代の読みの違いや、アルファー読みに溢れる現代への批判、成長過程や教材における両者の違いや効用、読者が古典を創る、など、筆者の体験や見解を通じて「読み」に関する洞察を展開している。

 

筆者の指摘に「なるほどなぁ」と頷けずにはいられれない内容だった。

なにごとも読んだら即座にわかってしまわないといけないように考えるのは、アルファー読みにならされた人間の陥りやすい誤解である。

本当に読むに価するものは、多くの場合、一度読んだくらいではよくわからない。あるいは、まったく、わからない。

それでくりかえし百遍の読書をするのである。

時間がかかる。いつになったら了解できるという保証はない。

それがベーター読みである。

わからぬからと言って、他人に教えてもらうべきではない。みずからの力に悟らなくてはならない。

 

確かに、日常に追われる僕らは同じ本を繰り返し読むことはほとんど無いのではないだろうか。

一度読んだから同じ本を二度開くことは極めて稀だ。

同じ本を開くよりも、次に興味ある新しい本を手にとっていることが常だ。

そうして前に読んだ本の内容は忘れ去っていく。

僕らは本を読むというより、本を消費していると言った方が近いのかもしれない。

それも結局のところ、アルファー読みで既知の事柄を再確認しているだけであったり、未知の情報に触れて、へぇなるほど、と満足しただけであったり。

ベーター読みこそ読む力であり鍛える必要のある力なのだ。

ではその力を高めるにはどのようにすれば良いのだろうか。

四書五経素読すべきなのだろうか。。

そうではなく、本書では、古典を繰り返し読むべし、としている。

時の試練に耐えてきた古典には普遍性がある。だから、その古典を読み、何度も読み、理解をしていく過程で、ベーター読みが鍛えられるのだ。

そうと分かれば、自分なりの古典を見つけなければならない。

少しその目星はついている。まずは再読をしてみようかな。