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過ぎ行く日々を少しでも。

嬉しいこと楽しいこと悲しいこと腹立たしいこと。日々の記憶を少しでも紡げる様に。

シャルリー・エブド

社会

年明け早々に起きた、シャルリー・エブドの襲撃事件で雑感。

まず、大前提として、テロによる殺人には断じて反対であるし、あってはならないと思う。

今日も幼い命が自爆テロに利用されたというニュースを聞き、理解ができない。

全てを不幸のどん底に突き落とすこの行為は、決して許されるものではない。

 

この点踏まえて、今回の件について、僕の視点は以下の記事に近く、感想もそこから出発する。



フランス社会に生きる移民達、その代表であるイスラム教徒はフランス社会において非常に窮屈な思いをしているようだ。

特に失業者が多く、貧困層が集まりスラム化しているという光景も日常にあるようだ。

移民の問題については、このあたりにも紹介がある。

「フランスにおける移民の社会統合とその問題」

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/sakaguchi%2813-1-30%29

ヨーロッパのイスラム教は、なぜ今まさに重大な局面を迎えているのか | Akbar Ahmed

 

過激派による事件のせいで、世間を騒がすニュースにイスラムの名を見ない日はない。

過激派の台頭でイスラム教が社会的な脅威を持つようになり、ますますイスラム教徒の立場が脅かされる。

当然ながら、大部分の穏健派は過激派とはまるで逆であるはずだ。

今回の一件で、穏健派もシャルリー・エブドの支持を表明しているし、同じ倫理観を共有している人がほとんどだろう。

 

しかし、シャルリー・エブドの風刺は穏健派も過激派も分け隔てなく攻撃を与える。

彼らが信ずる神を的にして。

 

彼らが心の拠り所にしているであろう神を何故そこまで揶揄できるのか。

そうした背景の一端について、以下の記事で冷影氏が紹介している。


欧米社会がこだわる「言論の自由」の本質 | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 

「いかに宗教的権威から自由になるのか」

仮にそうだとしたら、それはヨーロッパがキリスト教と歩んだ歴史と宗教の価値観で出来上がったものであって、イスラム教徒からすれば、そうした流れとは別に、彼らの信仰が培われてきたはずだ。

そうした彼らの信仰は尊重せずに、風刺を優先すべきなのだろうか。

 

シャルリー・エブドは何もイスラム教を揶揄するだけではない。キリスト教も揶揄している。

そういう記事も見る。

しかしキリスト教が歩んだ歴史が前述の自由を培い市民権を与えているのだからといって、イスラム教にもそれを求めるのは、少し違う気もする。

宗教というカテゴリーでは一括りにできるのかもしれないけれど、現にその信仰に生きる人々、しかも生きづらい社会でそれに救いや安らぎを求める人々にとって、それは切実なのではないだろうか。

その切実さのところに、信ずるものに土足で立ち入り遊びものにされたら、その人の尊厳はどうなるのだろうか。

 

言論の自由は守らなければいけない。

しかし守らなければいけない言論の自由とは、個人の尊厳や社会的迫害を容認するようなものなのだろうか。

JS・ミルはかつて自由論の中で言論の自由を語った。

功利主義に基づくそれは、確かに最大多数の最大幸福原理のもと、より良い社会の構築のため語られているはずであるが、その考えに基づき"私はシャルリー"を是とするならば、今のフランス社会においては、移民は、イスラム教徒は、勘案されないということなのだろうか。

それこそ、切り捨てであり社会的迫害ではないのか。

 

一方で、なぜそこまでして揶揄をしたのかも知る必要がある。

こうした風刺されることで被るであろう人々の痛みを思ってしても、自らの役割を信じて行っているのだろうか。

信じているその役割とは何であろうか。

それに連帯する人々の想いと行動、そこから見えるものとは。

 

 移民という社会問題と、ヨーロッパ的価値観の考え方、そして社会とイスラム教の付き合い方について、今回の事件は考える機会を与えてくれるように思える。