全体主義と個人主義
「戦争が起きたら日本のために徴兵を受け入れ戦場へ行く覚悟があるか?」
かつて私に投げかけられた質問であり、これに私は答えることができなかった。
当然、日本に生まれ日本に育てられた人間として、国に危機が訪れた時、大切な人たちを守るため、国のために戦うという考えは持てる。
その一方で、争いを好まない私は自らの命をかけて戦場に身を投じることができるかと想像すると、恐怖を覚える。
果たして戦争に参加すべきなのだろうか、いや、参加することができるのだろうか。
いやいや、戦争に参加なんてしたくないし戦争なんて起きなければ良い。
世界に争いごとは確かに耐えないけれど、幸いにして宗教の自由がある国において、宗教戦争は起こらないし、そもそも日本は敗戦からの経験で、憲法で平和を唄っているじゃないか。
戦争が起きた時、戦争に参加するか?なんて質問は、そもそも全体主義を支持し愛国心に燃え、帝国主義を懐かしむ感情を持つ人だ。
日本は負けた。そして欧米文化を吸収し、個人主義の地盤が固くなった。
個人の自由がある現代において、全体主義に戻ることはありえない。
当然、戦争に行きたい人は行くだろうし、行かない人は行かない。
そもそも平和を愛する者として、交渉を重視するべきだ。
利害の対立は至るところで起きる。それを武力ではなく対話で解決するのが人類の進歩というものだ。
武器をちらつかせて抑圧しようとする行為は、進歩的な態度とは言えない。
しかし現実はそう甘くない。世界では至るところに憎しみはあるし、戦争が起きているし、だから軍事予算が消える事もない。
武器は防衛上、外交上、どうしても必要になる。
何なんだこのジレンマは。
結局、グローバリゼーションが叫ばれ多様性が愛され相手を尊重しましょうと説いても、相手のことは本当の意味で信頼できないのだ。
こんな現実に絶望する。
最後の防波堤は武力であるという現実に絶望する。
そうした武力を挑発行為に使用する隣国だとか、コンプレックス丸出しで邪魔をしてくる隣国にはうんざりするし、お互い嫌い合ってればいつかあるきっかけで衝突することにもなりかねない。
戦争か降伏か、という二項立にすべきでもないし、愛国心から我が主張を貫くのは良いとしても、やはり程度を見極める必要がある気がする。こう言うと軟弱だろうか。
ただ、日本は、有事の際はみんなで団結するのだ。みな同じ方向を向き、行動を起こすのだ。
そんな空気に流され、望まない道を歩むことになってしまうのではないか、そんな不安を覚える。
だからこそ、個人主義を信じるべきだし、そのためには確固たる哲学とそれに基づく価値観が必要だと思う。
そうした個人主義を土台にした、自由な言論の場と、開かれた政治システムが必要なのだ。
最近の安倍政権の政策では、それが可能であるか疑問に思うものがいくつもある。
誤った個人主義を持ちお互いを傷つけ息苦しい社会になるのではなく、私個人を含めて、啓蒙して啓蒙され、安心で幸福を覚える社会を追求していくべきではないのか。
かつてヨーロッパが生み出した啓蒙思想を歴史から学び、昔の日本という伝統と誘惑に打ち勝ち、新たな日本像を創り出して行く必要があるのではないか。
こんな意見は、軟弱で喧嘩の仕方を知らない者の意見なのかもしれない。
喧嘩を避けるだけでは守るものも守れないかもしれない。
だが国と国の喧嘩は絶対に起こってはならないはずだ。
そんな危険な駆け引きを行うよりも、日本はもっと外交力を伸ばし、世界と対話し世界へのアピール力を高める事にこそ、力を注ぐべきではないのか。
そんなことを思う。
とりとめのない雑文になったけど、結論はない。
もっと勉強しなければ。