過ぎ行く日々を少しでも。

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ストア哲学入門

"わたしがストア哲学を信奉するようになった最後の理由は、死が必然であり、それにいかに備えるかについて、ストア哲学をもっとも直接的に、説得力をもって論じているからだ。わたしは最近、50歳という節目を過ぎて、より大きな問題について考えるようになった。すなわち、わたしは何者か、何をしているか、ということである。"

迷いを断つためのストア哲学

迷いを断つためのストア哲学

 

 気になっていた本書、読み終えた。書き始めるとだらだらと長い記事になってしまったので、目次というものを初めて作ってみた!

興味が湧いたのなら幸いです! 

 

なぜこの本を手に取ったのか

 今の自分自身は壁にぶつかっていると思っている。
それは、これまで何となく生きてきた、生きてこれた、そのことを、これからも続けていっていいのだろうか、つまり、このままでいいの?という疑問だ。
何故そう思うのか、それは周りの環境の変化と、僕自身の能力の無さ、というものを実感しているからだろう。そこから生ずるのは、変わりたい、より良くなりたい、という欲求だ。
 
そんなとき、この一節を目にした。
 
「神よ、変えることのできない事柄については冷静に受け入れる恵みを、変えるべき事柄については変える勇気を、そして、それら二つを見分ける知恵をわれらに与えたまえ。」
 
これは、アメリカの神学者倫理学ラインホールド・ニーバーの言葉で、ニーバーの祈りと呼ばれアルコールや薬物依存症などのプログラムで活用されているらしい。
この、コントロールができるものとそうでないものを区別する、という考え方が、ストア哲学の特徴の一つであり、重要な考え方となっているようで、この一節と伴にストア哲学的な話を目にすることがあった。
 
自分をコントロールしたい、そうした気持ちが高まっているいま、ストア哲学にはそのヒントがあるのではないだろうか、こう思って僕はこの本を手にしたわけだ。
 

実は、ストア哲学という存在を認識したのは初めてではない

 しかーし!僕の中のストア哲学、というのものは、あまり良くない印象が残っていた。
というのも、かつて読んだ竹田青嗣氏の本の中に、ストア派についてこんなことを言っていたからだ。
 
ストア派の哲学のテーマは、ともに個人が自分の生をいかに肯定できるかという問題だが、生活上の問題を深く洞察してその原理を掴みだしていくと言うより、人生論的な観想に近くなっている。
 
ところで、賢者なんて本当にいるのだろうか、あるいはもし実際にいたとしても仲良くしたいと思うだろうか。「荘子」に感情を捨てて「自然」を体得した闘鶏が、木で作った鳥のように見えるという故事があるが、ストアはの言う賢者にも人間味が感じられないような気がする。もちろん彼らが否定したのはパトスだけであって、すべての感情を否定したわけではない。喜びなどは「理性的感情」として肯定された。ゼノンもアテネ市民から非常に尊敬された。しかしそれにもかかわらず賢者に魅力を感じられないのは、ヘーゲルが指摘したように、彼らの主張が観念的であって、生きた人間としてありありとイメージできないからである。
 
こういう紹介を読んで、ストア派っていのは何か無機質的な、冷たい印象を受けたのを頭の隅で覚えていた。そして生き方指南のようなもの、それってつまり自己啓発の類であり、「ケッ!自己啓発なんて自分がないやつのやるもんだぜ!」と当時僕は考えていたのだが、年月が流れて今、ストア哲学の本を手にとっているというのは、色々な気持ちが去来する。
 
 

哲学との記憶

 僕と哲学について少し触れてみたい。(といっても書かなくても良いことだらけだけど、、)
 
僕自身、本を読むようになって、哲学に興味を持った人間だ。その理由は、過去の偉人達が行ってきた、"世の中の難題に対する考え方"、というものについて、それに至るプロセスや理論を知ることは、有意義であるように思われたからだ。
これにより僕は、哲学の入門書やソクラテスプラトンキルケゴールデカルトスピノザショーペンハウエルニーチェやカントやハイテガーやらやら、といった書物を買ってみては、なんとなくわかった気になったり、読み続けるのに挫けたり、とにかく頭でっかちになっては忘却するという愚を犯していたように思う。
日々は忙しく、どんどん過ぎていく。細胞は入れ替わり読んだ内容の記憶も薄れ、当初思っていたような「考え方を知る」という目的が果たせたか、と聞かれると、答えられない。
そうした部分もあるような、でもあるとまでは言い切れないような、そうした歯切れの悪さを感じるのは、結局の所自分の腹に落ちていないことが多いからではないか。
 
つまるところ、哲学だけでなく、本を読みそれを血肉にする、ということが出来ていないのだ。
これはショーペンハウエルが「読書について」で語っている、毒の話に繋がるんだ。
しかし、これって現代に限った話ではないらしい。エピクトスもこう言っていたそうだ。
「大工は学ぶことによって大工になり、船漕ぎは学ぶことによって船漕ぎになることをわたしたちは知っている。では、正しい行動をするということにおいても、そうしたいと願うだけでは十分ではなく、そうすることを学ばなければならないと考えられるのではないか。今足りないのは、理論ではない。理論はストア哲学の書物にたくさん書かれている。では、何が書けているのか。それを実践し、行為によって実証する人だ」
 
はい、その通りでございます、となる他ない。
一方で、行動しなければ何も変わらない、というのは誰だって知っている事だ。
問題は、なぜ行動に移せないか、であり、なぜ挫けて元に戻ってしまうのか、である。
 
前者については、ベイビーステップを、後者については、一日の振り返り時間を持つ、ということで対策になるような気がしている。
 
 

で、この本について

さて、長々書いてしまったが、あとちょっと本についてを書き足すと。
ソクラテスを祖とし、ヘレニズム哲学から近代以前の哲学は、いかに生きるべきか、という問いに対する答えを考え続け、ギリシア語で幸福を意味する「エウダイモニア」、いわゆる豊かな人生を送ることを探求した。そしてそれに対する解釈は人それぞれ多種多様であるわけだが、その一つにストア哲学がある。
 
ストア哲学は、宗教や原理主義とは異なり、他の学派からの批判や新しい発見を取り込もうとする、寛容な姿勢がそこにあるそうだ。
著者は、「人生の指標となる哲学を身に着けたり、それに順応したりすることは、最終的に選ぶどんな哲学よりも重要だと私は思う。」と語り、何がなんでもストア哲学だ!と言うつもりはないとしている。
僕はここに好感を持つ。
 
このストア哲学には3つの原則がある。
欲求、行動、受容がそれであり、それぞれに必要な美徳として、勇気/自制、公平さ、(実践的な)知恵があるとする。
そして、この美徳を日々哲学すること、言い換えると、日々実践することが、豊かな人生を送るために必要なこと、となる。
ここに、ストア哲学は実践の哲学と言われるポイントがあるのだ。
そもそも「いかに生きるべきか」なのだから、良しとする行動をとらないと、現実にはならないし空虚でしかなくなる。
この、ストア哲学が実践する「行動」には、英雄的な逸話も本書内でいくつか紹介されている。
まさか同じようなことができるとは想像できないのだが、しかしストア哲学は実践するものである、というのは本書を読んでいると折に触れて感じるのだ。
 
冒頭で、僕には変わりたい、より良くなりたい、という欲求があると言った。
これは裏返すと、今の自分に満足していないということであり、何故かというと、怠け者で自分を律するのが下手だからだ。それによって自己評価がマイナスになる。
 
そう、自分を律したいのだ。弱いから。
そのための指標が欲しいんだ。
 
最後に怠け者の自分に、本書で登場した言葉を引用し、戒めとしよう。
 
「羊のようなことをしてはいけない。そんなことをすれば、人間性を失うことになる。羊のようなことをするとは?食欲や情欲に流されるとき、思慮や品性や配慮に欠ける行動をするとき、羊にように堕落するのではないだろうか?何を損ねるのだろうか?理性である。闘争的だったり、有害だったり、怒ったり、無礼だったりする行為によって、わたしたちは堕落し、獣になるのではないだろうか?」
 
P.S.
ふと思った。
例えば休日、あるいは休日でなくとも、お酒を飲む、この行為は快楽に流されるため、羊になることに当たる行為だろうか。
きっとそうなのだろう。食欲、情欲に流されず、ただ理性で抑制し、更にやるべき事に励むべき、と。
これがストア哲学の禁欲的な側面だ。
僕は、そこまでストイックになりたいとは思わない。だからストア哲学的実践をしない、という意味ではない。
自分に合ったやり方、というのは必ずあるはずだ。それを見つけていきたい。

 

中庸の教え

"わたしたちは揺れ動く。その揺れ動きこそが自分なのだ。"

これまで超訳シリーズに手を出したことがないのだけど、たまたま本屋にこれが目に付き、パラパラとめくっていたら素朴ですっと入る言葉が多く、そのまま購入したこの一冊。

 

モンテーニュのことは知らなかった。16世紀後半、フランスはボルドーの近くに生まれ、裁判官を務め、父親の死を契機に領地の経営のため故郷に帰り読書暮らし、次いでボルドー市の市長に選出、という経歴を持つらしい。その時代のフランスではカトリックプロテスタントが対立し、血みどろの内戦を繰り広げており、彼自身、おもに調停者としての政治的・外交的活動をしていたそうである。

この本の元となっているエセー (もしくは『随想録』と呼ぶ) は、前述読書ぐらしを始めた頃から書き始めたもので、全6巻からなる、人間を鋭く洞察した書物のようで、フランス・モラリスト文学の礎(いしずえ)を築いたばかりでなく、後代のフランス文学、ヨーロッパ文学に深い影響を及ぼしたとされているらしい。

 

さて、本書のあとがきでも触れられているけど、エセーを元として、編訳者が現代人に読みやすいように言い換えを行っているので、エセーの書物それ自体とは異なる本のようだ。一方で、編訳者自身、モンテーニュに魅せられた人であり、原典に向かわせるためにも、その入り口として読みやすく、しかし本質を変えることなく、エッセンスを届けようとしたものだ。

僕自身、原典を読んでいなからその点はわからないのだけど、少なくともここに書かれているアフォリズムには、しみじみさせる何かがあった。

無常であること、自然を尊重すること、無知であるがゆえの謙虚を忘れないこと、といったメッセージを受け取れる。

自分自身を知ることが大切なのだと言う一方で、確かな自分というのは実はなくて、自由自在に変化するものなのだということも認めている。

自分というものは揺れ動くものなんだ、というのは実感を以て理解できるし、その時その時で変わる部分があると思っている。

だから、他人が揺れ動くこともまた然り、と認識するのだけど、スピードの早い現代社会において、細かいところや目に写る部分を見ていてそれに右往左往されて疲れてしまう、というのも実際ある。これはもっと見方を変えればいいのだろうか。。

 

無常、儚さ、といった事柄が特にそうだけど、割と東洋思想にも馴染む考え方だと思え、強ばることなく読めてしまう。エセーも読んでみたいな、と思えるものだった。

 

追記:

こちらのblogで紹介されている、実際にモンテーニュが書斎の紹介が興味深い。

彼が使用していた部屋の天井には、気に入った文章の引用や格言が彫り込まれているそうだ。紙に書いて別においておくとか貼っておく、ではなく、天井に書き込んでしまうだなんて! それほど常に目にしておきたい、思い返したいと思えるものだったんだろう。なんて書かれているのか興味があるなぁ。

http://m-mikio.world.coocan.jp/montaigne.html

起業家のように企業で働く

"今あなたがここにいること、すなわち会社で業務を行うことは「会社」や「上司」、「人事部長」がそうさせているのではなく「自分」でそうすることを選択している。普段、仕事をしていると、みんなそのことを忘れてしまうんだ。"

起業家のように企業で働く 令和版

起業家のように企業で働く 令和版

 

 

2013年に初版が発行され、この度加筆・改定された本。
5つの章に別れ、それぞれでキーワードを取り上げ、それに対する価値観が語られている。
至極まっとうなことが書いており、何が書かれているか、というかどう僕が受け取ったか、ということについて、あえて以下3つのことに絞ってみたい。
 
1.自分が選択している自覚を持つべし
企業で働こうが、独立しようが、全ては自分の選択なのだという意識。企業で仕事をしていて、仕事に慣れてくると、ルーチーンワーク化してきて、日々目の前の仕事だけに意識が完結しがち。しかしそれも自分が選択した働き方なのだ。慣れてしまうといつの間にか自動化され無感情で仕事をする事も多くなり、面倒は仕事を避ける気持ちが湧くことが多くなった自分がいる。これは危うい。こうした一つ一つの事柄は、受け身の態度が引き起こすものだと思うが、それって結局は意識的にも無意識的にも自分が選択してきた結果なのだ、ということを認識するところから始めなければいけない、そう思う。
自分はどうしたいのか、自分だったらどうするのか、何事も自分事にして考える、そうしたことが必要なのだと受け取った。
 
2.戦略的に生きろ。そして志・ビジョンを持て
企業内で働くか起業するか、いずれにしても自分の強みを把握することは重要だ。その強みを活かすにはどうしたら良いか、自分が勝てる場所はどこか。あるいは自分がやりたいことがあるのなら、そのためには何が必要か。戦略を立て自分のキャリアを推し進めていく必要がある。その行動には志が必要だ。目標が必要だ。もっと言えば、その先のビジョンがあると良い。
自分がどうなりたいのか、あるいはチームで何を成し遂げたいのか、そのために不足していることは何か、もしくはその目標には一体どんな価値があるからこそ、やらなければならないのか。
 
3.チャレンジしよう
快適だったり緊張感がない状態が続くと停滞する。停滞すると人間は少なからず腐敗したり固執したりする。そこから脱するには新しいことにチャレンジすることだ。チャレンジすることが色々な刺激が得られる。そして成長するのだ。
 
結局、人間的に成長が望めなければ、競争の中では生き残れない可能性が高い。
僕自身は、成長が全てではないとは思う。成長することに鋭利化することで、そうでない他人に対して不寛容になる人を見てきたからだ。それは分断を生むし、そこに心の豊かさがあるのかは疑問である。
だから成長しなくていいや、という訳でもない。
どちらかというと、このご時世における「成長」という言葉が持つ社会観念に対して、嘘っぽさというか欺瞞というか、そうした否定的な気持ちを抱いてしまうところがある。
一方で、僕は怠惰で堕落した人間なので、何もしないということをどこまでもしてしまう。生産性というものを持ち合わせていない。
そしてこれが僕の中途半端さなのだが、そのままでいいや、と腹をくくれず、そろそろ動くか、とのっそりと動き出してしまうわけだ。
"余は偉大なる落伍者となつていつの日か歴史の中によみがへるであらう”と高らかに落書きをした坂口安吾のことを思うと、なんと意気地のないことか。
 
話は脱線したが、とにかく、実践あるのみだ。

転職の思考法

"私は、転職が日本の社会を変えると本心から信じている"

このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法

このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む 転職の思考法

 

 印刷業界における大企業の営業マンとして働く青野君という架空の人物を主人公として、黒岩と呼ばれる経営コンサルタントから"転職の思考法"を学ぶストーリー仕立ての思考本。

主人公の置かれた立場や悩み、人物模様など、具体的に練り込まれていて一つの小説に近いものになっている。そして、彼が転職へと至るまでの疑問や悩みというのが、多くの人に共通しそうな、共通項の多いものになっていて、かつ具体的なのでぐいぐい読み進めてしまえる内容になっている。

この本を手にとっている時点で、少なくとも転職という考えが頭の片隅にあるだろうから、本人にある程度リーチするのは当然なのだろう。

この本がユニークなのは(といっても他の転職本を読んでいないので比較できていないけれども)、自身の転職先を選ぶ上での具体的な指標を挙げてくれていることと、それに留まらず、生きていく上での知恵、というものを少しアドバイスしている点だ。

例えば、こういう一節がある。

実際のところ、99%の人間が君と同じ、being型なんだ。そして、99%の人間は「心からやりたいこと」という幻想を探し求めて、彷徨う事が多い。なぜなら、世の中に溢れている成功哲学は、たった1%しかいないto do型の人間が書いたものだからな。彼らは言う。心からやりたいことを持てと。だが、両者は成功するための方法論が違う。だから参考にしても、彷徨うだけだ。

そして、心からやりたいことがないからといって悲観する必要は全くない、なぜなら「ある程度やりたいこと」や好きなことは必ず見つかるし、それで良い。その好きなことを、少しずつ育てていけ、と言い、こう続ける。

being型の人間にとって重要なことは、マーケットバリューを高めること。そのうえで「迷ったときに、自分を嫌いにならない選択肢を選ぶこと」だ。

あー、僕はbeing型ですー、と99%の人は読みながら思うのだろう。僕のように。

 

著者が目指している、信じているものというのは、よく分かる。

組織に依存して自分に嘘をつきながら過ごすよりも、自分という個が力を持ち、自分の好きなことで働くこと。そしてそうした人材が一般に求められる社会というのは、労働環境に置いて企業の理論が強力であることで人を不当に扱ういうような状況を無くし、個々人の力を健全に引き出し、風通しのよい文化を作っていく。働く人達が健全で元気であれば、社会もまた元気になるのだと、そういうように受け止めている。

そこには、当然ながら能力主義が前提にある。では個の力がない人どうすればいいのか。それは身につける他ないのだ。もはや終身雇用も年功序列も失われたと叫ばれて久しい。大企業でリストラのニュースも度々目にする。組織に守られていた時代はもう終わったのだ、というと何やら上から物を言っているようで居心地が悪い。しかし、「働く」ということが、意味にせよ形態にせよ、どんどん変わってきているのは事実だろう。(このあたりは義務教育に取り入れても良いんじゃないだろうか。)

そうした変化をなんとなく感じつつ、個の力を思った時に、何を隠そう、僕自身も個の力が無いと思っているので、危機感を感じている。じゃあ自分にとって何が必要なのかを考えた時に、「自分が本当にやりたいことが分からない」という落胆を感じていたのだが、being型の人にとってそもそも考え方が正しくない、ということをこの本で読めて、良かった。安心をしたわけではないけど。

とはいえ、僕にはまだやることが沢山あるんだよなー。

 

一つ蛇足的に補足しておきたいのは、「自分の好きなことをやって生きていこう!」という本は巷に溢れているけど(この本はその色はあまり出してないけど)、ただ同時に、"嫌だけど誰かがやらなければいけない仕事"というのも一方で存在するとは思う。この話の路線は社会論になっていきそうなのでやめておくけど。

キレる!

"どうすれば、相手の怒りや感情的な行動に振り回されることなく、上手に自分の怒りの気持ちを発散させるような切り返し方ができるのでしょうか。これらにはテクニックと経験が必要です。"

 

 

さっと読める本書。

タイトルだけで判断すると、上手にキレてコミュニケーションを円滑にしましょう、というところかな、と思えるもので、結果まぁ外れてはいかなかった。

言った者勝ち!キレて得をしよう!という本があったらそれはそれで面白そうだが、まあ目指したくはない態度だ。世の中、難癖をつけて利益を得ようとする澱んだ人間が多い。昔は恥の文化が色濃く残っていて、ちょっとしたことでギャーギャー騒ぐことは恥ずかしい、とされていたが、今の御時世では、損得勘定が優先され、何も言わないのは損である、あるいは文句を言えば我欲が通る、そんな考えから世の中は攻撃が増え社会がギスギスしている。これは僕の観念でありデータはないが、そういう印象は多いんじゃなかろうか。

社会がギスギスすれば、人の心は余裕がなくなる。余裕がなくなれば、他人への配慮も低下する。それが時にハラスメントであったり、不当な要求であったりする。そうして社会のギスギス度は増していくというスパイラルがあるが、そうした行動は当人のホルモン分泌も関わっていたりする。

本書では、"キレる"をキーワードに、怒りやイライラなど、ストレス反応的な行動を取る人や、あるいはうまく自分の気持を表せないことで悩む人などを念頭に、複数のケースをホルモン面から説明を試みている。

その人の人格などを念頭に置くのではなく、生理現象や心理現象としてそれら行動を理解し、認識しようとする。

例えば、あれ、これ俺が該当するかも?という一説がある。

セロトニントランスポーターの濃度が低い人は、決して普段から攻撃的な人ではなく、逆に真面目で人を信頼しやすいということもわかりました。(中略) 不安になりやすいが普段は真面目でおとなしく、人を信頼しやすいが、相手がずるをしている、自分に不当なことをしていると感じると、自分の時間やお金などコストをかけても、相手を懲らしめたい、報復したいと思ってしまう傾向がある。

セロトニンという神経伝達物質があり、これが多ければ不安を感じにくいというホルモンなのだが、これを再利用するタンパク質がセロトニントランスポーターであり、このトランスポーターの濃度が低いというこは、再利用されるセロトニンが少ない=脳内のセロトニンが少ない=不安を感じやすい、ということだ。

僕は不安を感じやすい性質だと思う時は多く、また自分が軽んじられたり不当に扱われると怒りを感じる。報復したい!というほど強い感情は生まれないにしても、そうした行動をとる相手には反発を覚えることがあるので、これってセロトニントランスポーターが少ないってことなのかなぁ、と。

ただ、これまた同じ中野氏の言葉だが、日本人はおおよそそうらしい。

セロトニン・トランスポーターの数は遺伝的に決まっているのですが、この数が少ない人の割合が日本人は約97%と、世界的にみても非常に高い。つまり、世界で一番不安になりやすい民族なのです。

引用元:https://money-campus.net/archives/6593

 

じゃあセロトニンを増やすことが対策になる。どうすればいいか?ってのはぐぐると色々でてくるので、詳しくはそちらを参照されたし。

話を戻そう。

ホルモン作用について述べたあと、じゃあキレる人たち相手にどう対峙するか、という話が展開されるのだが、要は以下である。

  • アサーティブな会話
  • やばそうなら逃げろ

アサーティブな会話というのは、自分も相手も大事に扱うコミュニケーションのことで、自分の気持を正直に、その場で相応しい表現で伝えることだ。自分を大切にしなければ、どんどん都合の良い人になってしまうし、自分が疲弊していくだけだ。どうしたら上手に自分の考えだったり主張だったり気持ちだったり、そうしたものを相手に伝えられるか。(もちろん、自分一方通行ではなく、相手の話も聞く必要がある。)

まあそれができたら苦労しないよ、というところだが、それができるようになるために、練習しよう、というのが主旨なわけだ。どう練習するか、それは自分の周りにいる人で上手な人の真似をしよう!、あるいはおすすめの番組or漫画紹介するのでそこから伝え方を学ぼう!という話だった。

このあたりはアサーティブという手法の話になるので、本書で具体的に取り上げるにはページ数がないので、あくまで"気づき"を与えるポジションなんだなぁ、と勝手に理解した。

 

昨今、脳科学にまつわる本が多く出版されていて、本書もその一つではあるが、身の回りにいそうな、ありそうなケースを取り上げ、ホルモン作用や心理現象の説明と、自分を大切にするための"気づき"を挙げている点で、日々疲れる日々を生きる人々にとって、平易に読める良い入門書、という本だと思った。

 

アサーティブ・コミュニケーション、できるようになりたいよね〜。

読みたいことを、書けばいい。

タイトル買いしてしまった本作。

 

読みたいことを、書けばいい。

読みたいことを、書けばいい。

 

 

良いことが沢山書かれていた。具体的にどれかと言われるといま即答できないのだが、この人がどういった人生を歩んできたことで、こうした本を書いているのだろうか、ということも読者は、少なくとも僕は推し量れるような内容になっていて、人柄というものに触れた気がする。
これは本書で繰り返し繰り返し述べられているように、自分が読んで面白い、と思えるもの。愛せる、というものを含んでいるからで、その想いがそのまま読み手に伝わってきて、著者の人物像の輪郭として浮き上がってくる。そんな気がする。
 
一つ、ここで言っている書くことは、話すことにも通じるものがあるなぁ、と読みながら思っていた。
話が面白い人は、起承転結がありつつ、そこに感情が乗っているから引き込まれるし面白く感じる。
簡単に言うと、面白いことを面白がりながら話すのだ。
 
感情の豊かさというのは表現の豊かさであり、それがそのまま本人の魅力である。
本人の魅力があれば、人はその人に好感を持つ。
好感を持っている人の話は、受け入れやすい。
そう、何を言うか・書くかでは大事ではあるが、そのベースとして誰が言うか・書くか、この部分でスタートは大きく変わってくるのだ。
 
そして、「誰が」という部分。それは自分であり、自分のキャラクター(個性)をつくるのは、他でもない自分自身だ。
 
読んで、書いて、あるいは話して。
そうしながら僕は作られていく部分があるんだろうな。
そんなことを思う読後であった。

目の前

もうこの先は閉ざされた。

強く言えば、死が迫っている。

やらなければいけない仕事は、組織としての仕事だ。

その先は行き止まり。

個人として必要なことは、その先にあるのかもしれないし、別のことなのかもしれない。

建前はわかった。

自分が主体的に動きたいのは、どこか。

それが問題だ。

目の前のチョイスの積み重ねが今の僕を作っている。

これまでも、そしてこれからも。

これは結構重いお話だ。

一方で、こうも思いたい。完璧主義に陥らないように。

常にベストのチョイスができるとは限らない。

でもより良く思える方へ、進んでいきたい。たまに道草するけど。

これはトーンダウンだろうか。

さあ、どうだろう。