過ぎ行く日々を少しでも。

日々の色々を記録していくトコロ。

目の前

もうこの先は閉ざされた。

強く言えば、死が迫っている。

やらなければいけない仕事は、組織としての仕事だ。

その先は行き止まり。

個人として必要なことは、その先にあるのかもしれないし、別のことなのかもしれない。

建前はわかった。

自分が主体的に動きたいのは、どこか。

それが問題だ。

目の前のチョイスの積み重ねが今の僕を作っている。

これまでも、そしてこれからも。

これは結構重いお話だ。

一方で、こうも思いたい。完璧主義に陥らないように。

常にベストのチョイスができるとは限らない。

でもより良く思える方へ、進んでいきたい。たまに道草するけど。

これはトーンダウンだろうか。

さあ、どうだろう。

Ignition

腹が立つ。相手に?いや、自分に。

 

僕はもともと血液型占いとか、血液型の相性とかは気にしない質だったのだけど、妙にA型の人とは合わない、という固定観念に捕らわれている時期があった。A型の人は神経質だったり、頑固であったり、攻撃的であったり、したたかであったりと、とっつきにいく観念があった。

過去の失恋経験からも、A型とは馬が合わないのかなぁ、と思ったりしていた。

しかし、その後蓋を開けてみたら、仲の良い友人にA型のやつが含まれている、という驚きの事実がある。しかも複数。

ここで二人A型の男性を取り上げるが、一人は学生時代からの付き合いで、一時期は毎日僕の家に来るほど家に入り浸り、もう一人のいつもの連れと合流し、飲みに行ったりを頻繁にしていた。野心家で努力家で口が達者で新人の頃から買われていて、いまではベンチャーでかなり上位の職位にいる。非常に人間味があり、とてもクズい。しかし憎めない愛嬌というものがあり、あいつはそれに救われているし、それが故に多くの女性を不幸にしている。

もう一人は社会人からの付き合いで、コミュニケーション能力に長けて誰からも好かれるし陽気で仕事の能力も高く、人の輪の中心にいるようなタイプだ。そしてこいつも女性にモテる。

二人の共通点は自分の好きなことを深掘りする、話し好き、女性受けが良い、寂しがり屋、課題達成型、などなど、考えてみると他にも共通してそうな点が出てくる。

どちらもユニークなやつで一緒にいて楽しい。

一方で、どこか自分の中で劣等感を感じる瞬間がある。前者のやつは畑が違うので、そこまで感じることはないというか、むしろ突き抜けているから比較対象とならない部分も大きいのだが、後者のやつはなまじ畑が同じなので、どうしてもふと、そうした感情を抱くことがある。

共通点がある二人だが、大きく違うのは、学生時代からの付き合いだというところから、前者のやつは良くも悪くも素のまま接してくるのだが、後者のやつは、性格上そうなのだがストレートじゃないことがある。思わせぶりだったり、演じてみたりと、含みをもたせる場面がある。自分のことを話すのは好きだが、相手のことを聞かない。いや、聞くのだけど、結局は自分の側に話を持ってくる。いや、僕のことを聞こうとするときもあるが、僕は自分の話は苦手なので、さあ聞かせてくれ、となると話しづらい。そうして違う日に、ちょっと自分のエピソードを出してみると、退屈な話なのか、アルコールで眠いのか、反応があまりなく自分の話に戻したり、あるいは眠いモードになったり。

しかし、興味のあるやつの話には考えを馳せるので、じゃあ俺の話がつまらないのか興味が無いのか、あるいは両方か、となるわけだ。

結局の所、それに腹立たしく思うのは、回り回って自分に向けられる感情だ。

 

こうした小さいことを考えること自体に最近飽きたというか、うんざりしている。

時間とともに記憶も感情も薄らいでいくけど、しかしこれを繰り返すのなら、ちょっと変えていく必要がある。

そう思う日だ。

異世界転生モノ

巷では異世界転生モノが流行って久しい。

ラノベが最初にやり出したようで、それがアニメ化したものがアマゾンプライムNetflixなどで大量に流れている。

僕もついつい見てしまい、大量の時間がそれに費やされた。区切りをつけたいので、ここらで一つまとめておく。他に見たものもあるがあまり記憶に無いので書かない。 順番は適当。

 

Re:ゼロから始める異世界生活

異世界転生モノで最初に見たアニメはこれだろう。主人公が死んだら何度も何度も前回のセーブポイントからシナリオをやり直すのはRPGそのものだが、そこから生まれる喜怒哀楽が軽々しくないタッチで描かれている。特に声優の仕事がキャラクターの演技に説得力を与えており、ペテルギウスというキャラには衝撃を覚えた。松岡禎丞さんは大した役者である。

 

Re:CREATORS

作者というクリエイターと、彼ら彼女らが描くキャラクター、そしてそのファンらとの関係性をキーとしてストーリーを描いた、ユニークな作品。それぞれが主人公でありそれぞれのストーリーを持っているのだが、目的を共有して協力し合うところに、異種混合格闘技的なものがあり、またそこに新たな関係性が生まれる。それらお互いが影響し合うところに、見どころがある。音楽も良い。

 

オーバーロード

主人公が強いステータスを持って始まることが異世界転生モノには多い。俺TUEEEEの無双状態で異世界で人生楽勝モードが一つのテンプレだと思うのだが、この作品は最強クラスの主人公が人ではなくアンデッド(骸骨)であり魔族側の長として始まる。人間の命を奪うこと自体に抵抗もなくなり、与えられた長として、部下に対してどのように振る舞うか、生存戦略をどのようにプラン・実行していくか、という経営的な要素が強い。基本的には絶対的強さがあるのだが、他にも同じプレイヤーがいると考え、チェスのようにストーリーが進んでいく点に面白みがある。それと、基本人間側は死ぬので、背景を描いて視聴者に少なからず感情移入を誘導したキャラをあっさり殺す、という点もひねくれていて良い。最近見たので感想が長め。

 

転生したらスライムだった件

スライムなので弱小スタートと思いきや、特殊スキルという能力のおかげて強者スタート。他社から能力を次々と吸収しあっという間に最強クラス。しかしこのアニメは異なる種族の魔族をまとめ上げ、社会性を与えるところにユニークさがある。ストーリーが進み雪だるま式に仲間が増えていくのだが、主人公の懐の広さと常識人的な行動が、魔族の行動としては新鮮であり、それが結束の要因となっている。

 

はたらく魔王さま!

主人公強い系で、魔族が人間界に来たという逆パターン。人間の日常生活に溶け込む努力をするユーモラスさと、いざというときに強さを見せる逞しさから、爽快感のあるストーリーだったと記憶している。

  

ノーゲーム・ノーライフ

ゲーム天才兄妹が異世界で無双する、RPGとは少し違ったお話。テンポが良く一気に見れた記憶があるが、内容はよく覚えていない。確か兄がシスコンだったようだ。

 

盾の勇者の成り上がり

現在進行中のアニメ。剣、槍、弓、盾の4人の勇者の内、社会的地位の低い盾の勇者が主人公。序盤で策略にはまりどん底に落とされて人間不信に陥るという奇妙なスタートを切る物語なのだが、それが主人公に生き抜く意味を与えている。強い負の感情は時として強い生への執着を生むようだが、それが一人の奴隷少女との出会いによって、良い方向へと変わっていく。そうした負の側面といい、勇者が好き勝手戦闘する裏側にスポットを当てる手法といい、表舞台ではない、地道な裏方ルートを歩くことで、少しでも異世界の中からリアリティを生み出そうとしているようだ。一味違ったもので良い。

  

この素晴らしい世界に祝福を!

先ほど見終わった。日常系。アマゾンの評価がやたら高い。とにかくギャグと男子的エロとゆるさが繰り返されている。確か宇野常寛さんは著書でうる星やつら高橋留美子が描いた終わらない日常だとかモラトリアムだとか言い、母性のディストピアと称したことを思い出す。終わらない日常というキーワードでは世間に数多の作品があるだろうがこれもその一つであり、ハーレム状態の主人公は誰をパートナーにする、ということもなく、繰り返し繰り返し彼らの関係性の中で愉快に物語を完結させていく。唯一、母性と呼べるものは存在しなく、従ってディストピアすら存在しないこの世界は、美少女だが残念な素養がある彼女らを(なんとか)うまく転がしつつ一方で認められるという、ある意味男性のエゴを描いている作品だ。それぞれの変わった個性をそのまま認め合えると言えば、多様性を描いた聞き触りの良いものになるが、見方を変えれば都合よくハーレム状態を作り出すための口実に過ぎない。とは言え基本的に優しい世界で作られているので、その安心感に視聴者は癒やしを感じているのだろう。面白いのは、作中自己中女神であるアクアを信仰するアクシズ教との教義だ。自己肯定感というキーワードが溢れる昨今、今の時代を表す点で良い教義だなと関心したので以下に引用する。

  • アクシズ教徒はやればできる。できる子たちなのだから、上手くいかなくてもそれはあなたのせいじゃない!
  • 上手くいかないのは世間が悪い!
  • 嫌なことからは逃げれば良い!逃げるのは負けじゃない!逃げるが勝ちという言葉があるのだから!
  • 迷った末に出した答えはどちらを選んでも後悔するもの、どうせ後悔するのなら今は楽チンな方を選びなさい!
  • 汝老後を恐るなかれ!未来のあなたが笑っているかそれは神ですらもわからない、なら今だけでも笑いなさい!
  • エリスの胸はパッド入り!

 

ということで長々と書いたのだけども、結局の所、何故僕自身、異世界転生モノに興味が沸くのだろうと思わずにはいられない。

  • 主人公の圧倒的強さにより、困難が困難でないという安心感
  • 可愛い、綺麗な(複数の)女性に好意を抱かれるという男性的願望感ユートピア
  • 主人公を中心として世界が変わっていくという自己効用感
  • 変わらない日常を描くことによる快適感

もちろんこの範疇から外れる作品もあるのだが、とはいえこうしたことが挙げられる作品が多いのもきっと事実のはずだ。であれば、結局の所、都合の良い世界感に浸って現実を忘れたいのだろうなと思う。

自分自身がこのアニメのように都合よくいかないことは誰もが知っているが、しかしアニメの中ならそれは裏切られない。

もちろんこれは僕だけの解釈であるし、こう思うからこそ、僕の精神面が停滞しているように思えてならないのだ。この考え方は辛いものがあるかもしれないが、一方で僕がすべきことはもっと他にある。それに向き合わないで異世界転生モノを見ているのは、現実逃避に他ならない。

そういうわけで、平成の終わりとともに、アニメに時間を割いていた自分の行動を置いていきたいと思ったので、この記事を書くことにした。少なくとも、大量に時間を投入することはもはや慎もうと思う。

 

P.S.

上記アニメの中で複数のキャラが登場する "異世界かるてっと"を見てしまった功罪が大きい。オーバーロードもこのすば!も異世界かるてっとを見て、ついチェックしてしまったからだ。歴代仮面ライダーとかウルトラマンとかそうした大集合モノに子供が目を輝かせるように、複数の作品が入り乱れる祭り感は、そこからどんなものが生み出されるのか興味を持ってしまう。大抵はダラダラと馴れ合い身内ネタ系になるなのは分かっているのだが、それでも、、というのが辛いところ。

 

ということで、以上!

お手本探し

最近、ハヤカワ文庫から出ている、「あなたの人生の意味」上下巻を読んだ。

それはこんな一説からはじまる。

 

"私は最近良く考えることがある。人間お美徳には大きく分けて2つの種類があるのではないかということだ。一つは履歴書向きの美徳。もう一つは追悼文向きの美徳。"

 

この二種類の美徳について著者は、ユダヤ教の指導者であるジョセフ・ソロヴェイチックという人が1965年に書いた「孤独な信仰の人」という本から転用し、「アダム1」と「アダム2」という言葉に言い換えている。

「アダム1」は僕らの中のキャリア志向で野心的な面を指し、目に見える成功であったり常に前進上昇を目指したり、いわゆる外の世界での承認を求めた立ち振舞い全てに関わるものだ。

一方「アダム2」は内なる世界に向かう力であり、道徳的資質を持とうとすること。謙虚であったり他人への奉仕のために自己犠牲を欲したりと、アダム1とは全く異なる理論がそこにある。

例えばアダム1の理論が経済の論理であり職業的な成功を欲するものとすれば、アダム2は道徳の論理であり道徳的な成功を欲するもの、というように。

 

著者は現代社会においてこのアダム1ばかりに注目が集まっていることに違和感を覚え、かつての社会においてはカントが言った「人間とは所詮、曲がった材木のようなもの」を引用し、つまり人間は生まれたままでは欠陥のある存在なのだから、それを自覚して謙虚でなくてはならない、というアダム2の道徳観を呼び覚まそうと本書で試みている。

その手段として、8つの章で昔の偉人の伝記を取り上げ、彼ら彼女らがどのように生きたか、というものを紹介している。そこから、それらを「人生を手本とする」ようなコンテクストを読者が受け取り、「良い人間になりたい」「この人のように行きたい」という気持ちに火がつくように期待している、というのが著者の狙いである。

 

前回の記事でも触れたように、最近の僕としては、何か規範になるような対象を探しており、冒頭こうした文を読んで、密かに胸踊らせた。

そして実際に、それら伝記に感じることは多かった。僕自身、ここに紹介されているような美徳に共感することは多い。それは時代遅れと言われるものかもしれないが、僕が育った環境を振り返ると、国は違えどそうした道徳観が確かにあったと思えるし、そのことに時代性というものを感じずにはいられない。

しかし僕が求めているのはより実際的な、身近な、強く思えるような、そうした手本になる人物だ。

ここに紹介されているのは、当たり前だがアメリカの偉人が大半で、あとはキリスト教かイギリスかの由来によるものだから、結局はアメリカ文化に関わる人々だ。

ナショナリズムをこじらせているわけでは毛頭ないのだが、手本にするにはやはりどこか距離を感じてしまう。勿論そこには普遍性があるのだけど、もっと身近に感じられる人物が僕としては理想だ。そういう意味で、日本人でそうした人に出会えると嬉しいと思う。

本の中で最も親近感が湧いたのを挙げるのであれば、アウグスティヌスだろう。昔、哲学関連の入門書を読んだときに、何故か頭にひっかかって名を忘れることはなかった人。人物紹介はwikipediaを読んでほしいが、自分の弱さに自覚的で、かつ正直な人だった。「告白」という著書で自分の性欲含む悪行について書かれているようで、そうしたことを含めて人間味を感じる。自分の、ひいては人間の弱さというものを認め、受け止め、そこからキリスト教の教義を構築していく。そこには自分の内なる面への探求があり、そこに親しみのようなものを覚える。

 

そういうわけで、もしあなたが日々を慌ただしく過ごしていることが多いなら、この本の読書を通して、一度立ち止まって内なる声に耳を傾ける、そうした時間があってもいいのかな、と思う本だった。そしてもしかしたら、手本にしてみたい人が見つかるかもしれない。

規範を持つ

今の自分に満足しているかと聞かれたら、満足はしていないと答えるだろう。

以前から自分自身に確固たる自信というものは持ち合わせていなかったが、一方でひょうひょうとやっているところがあり、状況に適用しながらそこそこやる、ということが強いて言えば長所かな、という自己認識だった。しかし、ここ最近はある種の焦燥感がある。きっかけは、職場で今後リーダーなりより高位の専門職なり、そういったキャリアを求められている方向にあり、自分を立ち返って考えることが増えたからだろう。

今後自分のキャリアを考える中で、自分はこの部署にいてその道を進めていくことでいいのだろうか、それが自分にとって良いことなのだろうか。務まるだろうかという不安や、ストレスが高まるだろいうという予想もあって、そうした将来に悶々とするのだ。

不安の根源としては、今の仕事において、自己解決できる技量が備わっていないことが原因であり、他人に相談する、それ自体は悪いことではないと思うのだが、自己判断が弱い、依存傾向にあると思っていて、それが自分の自身の無さに直結している。

さらに、他の同僚が面倒に巻き込まれているときに、積極的に協力できない場面があったり、むしろ自分のことで精一杯なので、なるべく関わりたくないな、と思ってしまう卑しい気持ちに、自分でげんなりするのだ。

これらの要因は、地道な鍛錬や、精神的な甘さを改め自分に厳しくすること、恐れに打ち克ち真摯さを意識すること、など処置の方法はあるだろう。

しかし、自分の行動や習慣というものを変えるエネルギーがなかなか沸かない、コンフォートゾーンから飛び出す勇気がない、と言えるのだ。

そうした状況が続く故に、自分に満足も自信も得られない。楽を求めることで、自己欺瞞に陥り、内面の暗闇から抜け出せずにいるのだ。

そうした状況を変えたいと思い、本に手を出す。仕事論や自己啓発、伝記のようなものなど。

それらは最もな意見が書かれていて、自分も頑張らねばと思ったのもつかの間、日常に戻ればすっかりこれまでの自分、ということになる。

こうした生産性のないループから脱却するには、規範が必要だと考えた。

自分の行動や考えについて、何かやるとき、判断するときに、この人だったらこうするだろう、といった心の規範になるもの。

もともと他人への興味が薄い僕は、誰かを強く憧れたり、この人のようになりたい、と願えるほど、自分の理想を投影できる人物がいない。

中学生の頃に、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアに尊敬の念を抱いたことはあるし、今でも尊敬はしているものの、こうなりたい!という人物像と言えるかは疑問が残る。社会を変えたい、という方向の行動がしたいわけではない。もちろん、普遍的なものはそこから汲み取ることができるだろうが、もっと親近感というか、共感が得られそうな、直接的で身近な人物が理想ではある。

このあたりが狭い考え方ではあるのだが、日本人にそうした人を見つけたい、という気持ちがある。もちろん、歴史上西洋で尊敬できる人は多数いるが、日本の歴史の中でそうした人物を心に持つことが、グローバル化された今日において、むしろ必要なんじゃないかなと思う。一方で、無理に日本の歴史から探そうとするのも不自然ではあるのだけども。。

ここまで書いていて何だが、今読んでいる本は、今とは違う、「昔の価値観」において立派な人の反省を複数人紹介している。それらは洋書の翻訳なので、全員欧米人であるのだけど、普遍的なものが、そこから見出すことができる。

元来、僕自信は他人によく見せるために演じたり、自分の気持を大っぴらに話したり表現したり、というのは好きではない。むしろ、そうしたものは自分の内に留めて、目の前のことに取り組む、という性質がある。だからなのか、「昔の価値観」に親和性があるように感じられ、そうした人物に好感を持つ。

この本については一段落したら、別の記事で触れたいと思っている。

とまぁ、ここ最近の僕は、そうした規範になるものを探し求めているのだ。これは弱さだし、これまでの中でそうしたものが築けていない失望であったりするのだけど、そう嘆いていても仕方ないので、そうしたテーマを今年は持っている、ということだと思っている。

妻を知る

自分のことでうだうだ書いていたが、昨日は妻のことで理解が明確になったことがあった。

妻はハイリー・センシティブ・パーソン(Highly sensitive person)、通称HSPと呼ばれる特性を自身が持っていると、最近になって自覚したとのことだった。

まず、HSPとは何か。学術的な定義は難しくてよく分からんのだけど、僕の認識では、「高い感受性を持つことで、外部から受ける情報量が通常の人よりも多量で深い特徴を持つ」ということだ。

これによるメリット・デメリットは色々あるようで、色々なことに気づけ感情豊かである一方で、常に大量の情報が流れ込んでくるのでいつも高負荷処理状態になる、など。

Wikipediaの概要と特性の欄が非常によくまとまっていて的を得ているので、引用させてもらうと以下だ。

ハイリー・センシティブ・パーソンHighly sensitive person, HSP)とは、生得的な特性として、高度な感覚処理感受性(あるいは、カール・ユングの造語で言えば生得的感受性[1][2])を持つ人のこと。共通して見られる特徴として、大きな音、眩しい光・蛍光灯、強い匂いのような刺激に対して敏感であることが挙げられる。HSPはしばしば、豊かで複雑な内的生活を送っているという自覚をもっている。物事に対して容易に驚き、短い時間にたくさんのことを成し遂げるよう要求されると混乱するという性質を持つ。

属性・特性の欄にはこうある。DOESという言葉は覚えておこう。

HSPの属性は、「DOES」という頭文字で覚えることができる。

  • 処理の深さ(Depth of processing)
  • (他の人と比較して容易に起きる)過度な興奮(Over aroused)
  • 感情的反応性・高度な共感性(Emotional reactivity and high empathy)[26]
  • 些細な刺激に対する感受性(Sensitivity to subtle stimuli)

HSPである学生は、他の人々とは異なる仕方で学習する。HSPは些細で細かい部分に注目し、それについて長時間考えを巡らせるが、学習課題に対する理解を示すまでには時間がかかる。もしHSP学生が授業内の議論に貢献していないとしても、必ずしもその学生は理解していないとか、シャイであるとは限らない。HSPはしばしば、一般的な見解とは異なる洞察を抱くが、それを披露することは恐れる。なぜなら、口に出してしまうことは自らにとって刺激が大きすぎるからである。感受性の高い学生を教える際のコツが知りたいのであれば、『The Temperament Perspective』[27]や『The Highly Sensitive Person』[28]の最後の部分が参考になるだろう。同様のことは職場にも当てはまる。HSPは素晴らしい働き手になりうる。細部をよく見ており、思慮に富み、また忠実であるからだ。HSPが一番活躍するのは、静かで落ち着いた環境が整っているときであることが多い[29]HSPは監視されていると力を発揮できないため、昇進から漏れることもある。HSPは社交性が乏しい傾向にあり、自分ひとりで処理できる経験を好む傾向にある[28][30]無意識的あるいは半無意識的に環境内の些細な事柄を処理できる能力から、しばしばHSPは「ギフテッド」や「第六感」を持っているように見えることもある。

 

もともと自分の感受性の高さに自覚があったが、その内的疲労や混乱にいつも戸惑っていたと妻は言っていて、HSPという定義があることで、とても納得したようだ。

自分を理解するのに(正しい)ラベリングがあると、人は安心する。妻は最近この言葉と意味を知ってから、自分の理解が高まったと言っている。

自分で言うのもなんだが、僕自身は考えも身体も鈍感な方で、彼女とは対極にいるのかもしれない。ただ、そのことでお互いバランスが取れて良いね、と言えるようにはお互いのことを分かってはいる。

分かってたいたつもりだったが、分かっていなかったことがあった。

それは、妻はシングルタスクでないとうまく対処できず、マルチタスクだと情報量が更に多すぎてうまく処理できなくなる、ということ。

例えば5つの工程に分かれるタスクAがあったとして、A1からA5のことをやるときに、A4までやって、あとはA5をやるだけの状態とする。そこに4つの工程に分かれるBという違うタスクがあり、A5のついでにB3が一度にでき、そのままB4にいけるので、B2も予めやっておけばいい、などと外から見ると思うのだが、Aというタスクを終わらせないと、Bというタスクに移れない、ということらしい。

メモをすることでその整理はつけられるようだが、一旦立ち止まってリスト化しないとその整理もつかず、頭の中だけでは混乱するらしい。

あれやこれやと考えて思考が発散してまとまらず混乱する、焦る、というのはわかる。そのためにメモを取って客観視する、というテクニックも本人は知っている。

ただ、そうした一つ一つの負荷、というものがどうやら違うらしい。なぜなら、インプットの情報量が違うから、そもそもシンプルにする過程の深さが違うのだ。

こうしたことを、昨日初めて会話して理解できた。

もう一つ知ったことがあって、それはこうした特性を人に語るときに、涙が出てしまう、ということ。自分でも何の涙かは分からないのだという。これはWikipediaにかかれているように、口に出してしまうということは本人への刺激が強すぎる、というのがあるようだ。

こうした会話ができたことはとても大きくて意義のあることだった。

発見、という言い方は適切ではないけれど、こうした会話によって鈍感な僕でも、そうした理解と知識が得られるのだから。

 

こうした経緯で、昨日の会話はとても良かった。

この会話はどうやって引き出せるか。それはふとしたタイミングや状況によるものだ。

僕ら夫婦はいま、あることでちょっとチャレンジをしようとしている。正直色々な不安はあるのだけど、でもやらなかったことの小さな後悔を残すようなら、やったほうがいいよね、ということで始めたことだし、これについては妻がきっかけを作ってくれた。

このきっかけのことを思ってみても、僕は断固!というような明確な意思を示してはいないけれど、態度や雰囲気などから、妻は情報を受け取って考えてくれているのだなぁと思う。

ちょっとふわっとした話を出してしまったけど、やはり相手を理解するには、僕のような鈍感なタイプには、会話が一番のようなのだ。

自分を知る3

直近の記事は一ヶ月前に書いたものだ。ブログの記事を書こうと思いそれを読んだら、今の地点と変わらないことに絶望する。実を言えばこれはお家芸で、もう何年もそういうことを繰り返している気がする。思い立っては挫折(というほど良いものではない)し、スタートに戻る。

スタート地点をぐるぐる回っている。

感情の起伏が少ないあるいは無い、と前回書いた。いま読んでいる本が少しだけワクワクするものだ、とも書いた。

その本によると、人生を自分の意思でコントロールしていると自覚しているほど、人生の幸福度は大きいらしい。その本には自己採点表もついており、僕は見事に受け身体質なわけだ。そりゃ幸福度も相対的に低いのだろう。

では変えたいのか、そりゃ変えたい。しかし努力は限られている。そう、真面目系クズ、のようなものだ。

と、まーたネガティブなことを書いている。

 

今日ここに書こうとしたのは、自分のなりたいもの、者、とは何か。

自分のやりたいこととは何か、だ。

感情の起伏が乏しいのは、熱が、熱意が、情熱が、僕に無いからだ。そう思う。

僕が情熱がある状態というのはどんな時だろうか。それは、動画制作のとき、だった。

過去形にしたのは、ここ最近で設備投資をしたものの、肝心の動画制作に対する取り組みが熱心ではないことがあるからだ。僕のかろうじてのアイデンティティでもある写真や動画制作が、昔より前のめりになれなくなっている。ツールの変化にまだ慣れていない、のもある。

それもあるのだが、昔自分が嫌った、つまらない人間、面白みのない人間、に向かっているようで、怖い。

事実、いまそう自分のことを思う。

何度もスタート地点に戻り、成長もなく、情熱を傾けるだけの仕事もプライベートもない。

ただ周囲と時間に身を委ねて流されていく人生。

これでいいのか。

何が楽しいのか。

 

唯一救いなのか致命的なのか、元来僕自身は鈍感なので、そこまで深刻には考えていない。考えていないのだけど、茹でガエル状態で、死に体ではないのか、とも思う。

 

結局ネガティブ思考は止まらない。

 

自己肯定感の本は読んだけど、心持ちをどう前向きにするか、であって、こうした自分のことを考える文章では、どうしてもネガティブによってしまう。

 

ポジティブな文章に変わる変化が見られるよう、スタート地点から早く動き出さねばいけないのだ。