過ぎ行く日々を少しでも。

日々の色々を記録していくトコロ。

なんでもないこと

日常はつまらない。

日々時間は過ぎていく。暇であっても忙しくあっても、時間が変わらず過ぎていく。

そのことに慣れていると心もつまらなくなりがち。

抑揚が無く感情の起伏も小さくなりがちで、妙に空しくなる。

小さな不満を溜め込むのは毒だ。

誰もが意識的に溜め込むことは良しとしないけれど、日常は幸せで満ちているなんてことはそうそうないのだから、多かれ少なかれ不満は日々募っていくのだ。

でも、ちょっとしたことで日々のそうした曇り空は、一時的にもクリアになる。そう、ほんの一時的ではあるけれど。

アプローチは様々だ。

僕自身、最近は灰色な日々を送っていたけれど、ふと音楽を聴くと気持ちが軽くなる。

ウィスキーを口にすれば、心が軽やかになる。

小さな気分転換でしかない。

でもこの小さな気分転換が、どんなに大きなことかは、本人にしか分からないだろう。

それでいいのだ。

しかし、僕の音楽inputの無頓着は隔世の感があるかもしれない。

もうちょっとシーンを気にしないと、ガラパゴスの世界になってしまう。なーんて思ったりする。

牛乳石鹸

 今話題のやつ、見てみた。

 

さてこれをどう見るか。

  • バスを使った電車通勤、少し郊外のマンションか。
  • 妻は朝にジャケットらしきものを羽織っている、共働きか。
  • 会社ではちょっと頼れる?先輩の立場、資料のレビューをする
  • 昼休みにプレゼントを買いに行くマメさ。
  • 上司にミスを怒られている後輩を見て、夜に慰めるため呑みに誘う。
  • 父親ガテン系?キャッチボールする時間はなく1人壁へボールを投げていた。
  • 呑みに行く前に、ケーキは買ってある。無料で2時間のドライアイスの線を考えると、1時間程度呑んで、1時間程度の通勤時間か。
  • このあたりから考えると、おそらく帰宅が20時あるいは21時だろうか。食卓は飾られたまま、妻もすっかり着替えてしまった様子はないし、子供はまだ元気に起きている。

このあたりから推測できるのは、若干イラッとした気持ちから出てきた、ちょっとした反抗心、だろう。

主人公が呟く「家族想いの優しいパパ」と「あの頃の親父」というキーワード。

ステレオタイプ的に言えば、前者は妻の頼みをよく聞く、物分りの良い旦那であり、後者は亭主関白、にあたるのではないだろうか。つまり、発言の軸が妻にあるのか、夫にあるのか。

そんな今と昔を比べて、腹立たしさを覚えたのではないだろうか。

最初は妻に対して、そのうち自分に対して。

 

いつからこんな、反発することもなく妻の言うことをただ受け入れてしまうような「優しいパパ」になったのか。そして妻からのお叱りの言葉。

「ちょっと風呂入ってくる」

風呂につかりながらこう思う。

"親父が与えてくれたもの、俺は与えてあげられているのかな"

牛乳石鹸でほぐれた気持ち。

そして息子の誕生日会は始まる。

 

これはむしろ、父親はこうした気持ちを持っているんだぜ、という母親へのメッセージなのかもしれない。

ちょっとは俺の気持ちにも気づいてよ、牛乳石鹸のように、お互いのイライラはさっと洗い流しちゃおうよ、って。

 

違う客観視をすると。

男性側の言い分は分かる。ゴミ捨てするのは当たり前、思いつきのように用事を頼み、断るすきを与えない、いや当たり前にやってもらえるもの、という頼み方。

都合よく使われている感に男性は自尊心を傷つけられるし、そもそも誕生日当日になぜこうなった、という話もある。

女性側の立場としては、共働きだとして、料理は作るし他の家事だってしているのだから、それくらいやってくれていいでしょう、という意見だろうか。それも分かる。

このギャップを埋めるのは、日々お互い会話をすることだし、家事へのイライラをためないような素の話を少しでもできるか、できているか、だろう。

我が家は比較的に精神年齢が低いので、イライラをそんなに持ち越すことなく楽しくやっている、って言えるところがあるから、まだ幸せなのかも、って思う。

 

色んな物議が巻き起こっているけど、分断を深めるだけのネタにするのではなく、お互い話せるネタになると良いよね。

 

 

 

 

読書

仕事に追われているせいか、あまり心のゆとりをもてていないような気がする。

いや、時間が余っていても、ただそれを浪費しているような心持ちだ。

特にAmazonプライムには多くの時間を奪われている。

我が家はApple TVを使ってコンテンツをミラーリングによる視聴ができるから、非常に気軽に作品を見ることができる。

映画やドラマ、そしてアニメ。

TVなんて時間泥棒であると言い、一時は壊れてまともに見れないTVをこれ見よがしにそのままにしてテレビを見ない生活を過ごしていた。

しかし現在、Amazonプライムというトータルサービスの一部に、非情なまでの時間奪取を受けている。

実際に、魅力的なアニメの用意が複数あることでついつい見てしまうのだ。

その影響によって、読書から少し遠ざかってしまっている。

読書に対する集中力も衰えていると感じているので、黄色信号だ。

それではいけない、と思い、最近白石一文作品を再び手に取り、読み始めている。

その前に読んだものとして、書店の一段を独占していたつい手に取った昔のミステリー作品があったが、話のトリックは興のある構成であったが、なんだか物足りなかった。

そのギャップだからから、白石氏の作品には安心感を覚える。

やはり僕の趣味にあう小説というのは、内面の描写や、登場人物を通して作家自身が認識する言葉の取り扱いを丁寧に書いているものだと思えるし、読書というのはそうした作家の描く世界の中をいかに楽しめるか、あるいはその考えとどう対峙するか、というある種双方向的な時間なんじゃないかなぁ、と思う。

ちょっと言葉足らずだけど、そんな話はまた今度。

 

しかしちょっと油断するとブログサボりがちになってしまう。

僕は書くのが遅いほうだから、一記事にかかるコストも違うんだろうなぁ。

VRの本

『VRビジネスの衝撃 「仮想世界」が巨大マネーを生む (NHK出版新書)』

著・新 清士

 

筆者はVRがもたらす没入感を体験してからすっかり虜になったようで、その強烈な体験から、VRビジネスが持つ将来性に信頼を置いている。

技術は主に以下3種類に分かれ、本書ではVRを主としてヘッドディスプレイの進歩を語っている。ARはスマホアプリでも知っている人がいると思うが、カメラを通した映像に情報を付加表示するものだ。これに対して、MRというのは目に見ている現実の風景に、まるでそこにいる/あるかのような存在感のある物体を映す技術であり、視覚上は現実と虚構の区別がつかなくなるのだ。

AR(Augmented Reality : 拡張現実)

VR(Virtual Reality : バーチャルリアリティ)

MR(Mixed Reality : 複合現実)

キックスターターと呼ばれる著名なクラウドファンディングのサイトから資金集めから始まり、その後Facebookに買収されたオキュラス社とその創業者パルマーラッキー氏(現在はFacebookを退社)のストーリーを扱いながら、欧米におけるPCゲームコミュニティでの意見交換やゲームエンジンの働きが、VR誕生には欠かせない要因であることも紹介されている。

本書の中で触れられている、日本と欧米のコンテンツ作りの発想が違う点が面白い。

そもそも言葉の定義に違いがあるらしい。

バーチャル=仮想という日本語訳は日本IBMのSEさんが発案したものでその後定着したのだが、ここに含意される意味合いが日本と欧米で違うというのだ。

日本で仮想といえば、虚構上にある、現実とは”別”の何かを意味することになる。

一方、欧米におけるバーチャルという言葉に含意されるものは、現実世界に存在する対象と”同等の意味を持つ"なにがしかなのだ。

つまり、日本的な仮想とは、現実とは切り離された観念の世界であるのに対して、欧米におけるバーチャルとは、あくまで現実の世界の延長にあるものとして対象を想起している、というのだ。

"「ミクミク握手」や『サマーレッスン』など、仮想のキャラクターとのコミュニケーションを楽しみ、本来は実在するはずのない世界を、あたかも現実だと認識するような実在感を持って体験させるところに、日本のVRコンテンツの特性があるのかもしれません。(中略) 実体のない仮想としてのバーチャルを実現しようという情熱は、日本人のバーチャルに対する考え方から生まれているのかもしれません。”

 

今日、日本では簡単なVR体験というのは自宅でできる時代でもある。

プレイステーション4の例を出さずとも、例えば、スマホでVRアプリは無料でダウンロードできるし、ヘッドギアも安価なものであれば1000円程度で入手可能だ。

アプリでは四辺が歪んだ映像が左右同時に映し出されるのだが、ヘッドギアを装着すると目の前にはまるで自分がそこにいるかのような映像が映し出され、頭を左右に回せばそれに伴って見ている視野も移動する。

没入感という意味では決して高くないものの、VRとはこういうことか、という体験が手軽にできる周辺ツールはすでに用意されていることが分かるし、実際に僕も安いヘッドギアを買って試してみた。

試してみたコンテンツは、二次元キャラが耳かきをしてくれるというソフトで、とても日本的な発想で面白いし、初のVR体験でかなり新鮮だった。うまく頭を膝にのせるのが難しかったけど。。

もう一つ試したのは、フジテレビが提供する、VRアイドル水泳大会 騎馬戦というこれまた邪なものでかつとっても日本的なコンテンツ。実際のビデオ映像が360度できるというもので、カメラを中心に水着の美女たちがゆっさゆさ、もといバッシバシと騎馬戦バトルを繰り広げるコンテンツ。

なるほど、リコーが360度カメラをリリースしているけど、こうやって使えば新しい映像コンテンツが作れるのだなぁと感心した。

ハードウェアの進歩と需要が高くなればなるほど、価格が安くても質の高いVR体験が自宅でできるようになるかもしれない。

そこで重要なのはコンテンツなのだけど(本書もそのあたりチラッと展望を書いている)、まだまだゴミあさりに近い、というブログも見られるので、これからの発展に期待、というところだろう。

新しい技術が活気づき新しい体験ができるようになるのは、面白いよね。

益々盛り上がって欲しいと思いつつ、酔うし眼が痛くなるとも思うので人体への影響に関する研究も進んで欲しいところだ、と思ったりする。

 

ネイティヴに

英語をもっと自然に使えるようになりたい。

もっといえば、気の利いたことをもっと使いこなして積極的に使っていきたい。

その方がコミュニケーションが円滑になるし、もっと近づける気がするからだ。

僕はまだ、相手の好意に報いるということを十分に果たせていない気がする。

読後の憂鬱 / 命の器

昨日から夜になると憂鬱な気分に襲われる。

なぜだろうか。

宮本輝氏の小説を最近読んでいて、その流れでエッセイ集である「命の器」を読み終わったのが昨日で、もしかしてそれがきっかけなのかもしれない。

なぜきっかけになるかというと、ちょっと言葉で的確に言い当てられないのだけど、自分と向き合う、ということにスポットライトが当たっているからだと思う。

明確に自分を向き合う、という作業をしているわけではないのだけど、読後はぼうっと内省することが、少し増えた。

そうすると何が起こるかというと、不安な気持ちが湧いてくるのだ。

この不安なるものはどういう種類のものなんだろう。

それもまだ分かってはいないが、昔に似た経験はあるので、やはりこれは不安なのだよなぁとひとりごちするのだ。

しばらく横になってその気分のままぷかぷかしていると、少しづつ沈んでしまう。

精神が弱り、時間だけがただ過ぎていく。

シャワーを浴びると、少し気分転換になる。

そしていま、気分転換がてら、ブログに少し書き綴っている。そうすると、少し心が軽くなるのだ。

物書きをするということは、自分と向き合うことだったり、不安との戦いであったり、はたまた書くというアウトプットの行為を通じて癒やしを得る、というものなのかもしれない。

氏が命の器の中で書いていた、持病と隣合わせにあった苦しい日々のことを思うと、少しそうしたことを思うのだ。

 

 

命の器 (講談社文庫)

命の器 (講談社文庫)

 

 

 

 

 

ブルーなホワイトデー

今日はホワイトデーだ。

会社の職場でホワイトデーのお返し選定のため、某チョコ屋で品物を見ていて、これかな、というものを予めあたりをつけていた。

その時に妻もいて、彼女は彼女で、「私にはこれがいい」というのを冗談を交えた会話の中で言っていた。

そうして後日会社の人たちに選んだチョコは、本日当人たちに手渡っていき、一方で妻へは、「これがいい」と言っていた、会社の人達に選んだホワイトデー限定品のラインナップとは異なる、価格帯的には上のグレードのものを選んだのだ。

昔ホワイトデーでチョコを贈ったときに、トリュフのものが良いと言われたのを覚えていて、トリュフ入りを選んだのだ。

その結果。

「これがいい」と言ったものではないことで、かなり落ち込んだ。

望んだものではないことで、涙目にすらなったのだ。

彼女としては不要なサプライズであり、これがいいと言ったにもかかわらず、その意志は僕には伝わっていないという、一種の意思伝達が叶わなかった悲しみを抱いたのかもしれない。

一方僕としては単純に喜んでくれるものと思っていたものの違う結果に対する落胆と、日々の家事への手伝いや、各種の配慮、あるいは誕生日にちょっと奮発したプレゼントなど、それらは全て充分とはいわないながら、日々の積み重ねというものを信じていたのだ。でも、この日の涙で、たったこの一度の出来事で、そうしたものは軽く吹き飛んでしまうのだろうか、という疑問が湧いて出た。

確かに望みのチョコを贈ることはできなかったのかもしれない。

これは僕のワガママなのかもしれないが、サプライズが少し好きな性質があることは相手も承知しており、これが良いかな、と贈ったこの気持も少し考慮してくれれば、涙目にはならないのではないだろうか。

あの反応はまるで、自分の期待とそれが裏切られたショックで閉じられた、どこまでも自分だけのもののように思え、そこに僕に対する配慮というのは垣間見れなかったのだ。

それは残酷なまでに純粋な反応だった。

もちろん、そのあとに弱々しくありがとう、という言葉はあった。

だけれども、二人ともブルーになるこの結果は、一体誰が予想できただろう。

それほどまでに楽しみにしていたということか。

 

僕がもっと大人で、もっと温かい心で見つめてあげれば良いのだろうけど、今はただただ悲しい感情だけが宙に浮いている。

 

後日談:

妻の涙は、僕の悲しみを感じてのことだったらしい。

それでも望むものではなかったことではないことは確かだ。

だから僕は改めて買ったんだよ。彼女が欲しかったものを。

なぜかって?

彼女がそう思ったことは確かで、だからこそ悪い思い出のまま終わらせたくはないからだ。

それが僕の選択、ってことだね。