ブルーなホワイトデー
今日はホワイトデーだ。
会社の職場でホワイトデーのお返し選定のため、某チョコ屋で品物を見ていて、これかな、というものを予めあたりをつけていた。
その時に妻もいて、彼女は彼女で、「私にはこれがいい」というのを冗談を交えた会話の中で言っていた。
そうして後日会社の人たちに選んだチョコは、本日当人たちに手渡っていき、一方で妻へは、「これがいい」と言っていた、会社の人達に選んだホワイトデー限定品のラインナップとは異なる、価格帯的には上のグレードのものを選んだのだ。
昔ホワイトデーでチョコを贈ったときに、トリュフのものが良いと言われたのを覚えていて、トリュフ入りを選んだのだ。
その結果。
「これがいい」と言ったものではないことで、かなり落ち込んだ。
望んだものではないことで、涙目にすらなったのだ。
彼女としては不要なサプライズであり、これがいいと言ったにもかかわらず、その意志は僕には伝わっていないという、一種の意思伝達が叶わなかった悲しみを抱いたのかもしれない。
一方僕としては単純に喜んでくれるものと思っていたものの違う結果に対する落胆と、日々の家事への手伝いや、各種の配慮、あるいは誕生日にちょっと奮発したプレゼントなど、それらは全て充分とはいわないながら、日々の積み重ねというものを信じていたのだ。でも、この日の涙で、たったこの一度の出来事で、そうしたものは軽く吹き飛んでしまうのだろうか、という疑問が湧いて出た。
確かに望みのチョコを贈ることはできなかったのかもしれない。
これは僕のワガママなのかもしれないが、サプライズが少し好きな性質があることは相手も承知しており、これが良いかな、と贈ったこの気持も少し考慮してくれれば、涙目にはならないのではないだろうか。
あの反応はまるで、自分の期待とそれが裏切られたショックで閉じられた、どこまでも自分だけのもののように思え、そこに僕に対する配慮というのは垣間見れなかったのだ。
それは残酷なまでに純粋な反応だった。
もちろん、そのあとに弱々しくありがとう、という言葉はあった。
だけれども、二人ともブルーになるこの結果は、一体誰が予想できただろう。
それほどまでに楽しみにしていたということか。
僕がもっと大人で、もっと温かい心で見つめてあげれば良いのだろうけど、今はただただ悲しい感情だけが宙に浮いている。
後日談:
妻の涙は、僕の悲しみを感じてのことだったらしい。
それでも望むものではなかったことではないことは確かだ。
だから僕は改めて買ったんだよ。彼女が欲しかったものを。
なぜかって?
彼女がそう思ったことは確かで、だからこそ悪い思い出のまま終わらせたくはないからだ。
それが僕の選択、ってことだね。
モーニングメソッド
勝手に略して、MM、今日から始めました。
次は、まず10日間続けること!
メモ
ただの駄文です。予めご容赦を。
寒い季節というのは思考が内向きになりやすいようで、それによってネガティブに陥りやすくもなる。
妻は寒いのは苦手で、特にこの時期はイライラしやすくなることも多い。
昔、結構危機的な場面に直面したのもこの時期だったし、それを振り返れば、今は平和とも言える。
それでもこの時期はイライラのせいで、攻撃的なセリフを口にすることもあるし、言葉使いもまるでギャルかのような品の欠ける口調になったりもする。
それも感情的になっているからであって、いわば下地がそこに見えるわけだ。
その事で悲しく感じることはあるけれど、それで全てが台無しになるようなことでもない。
むしろ、そのやり取りの中で発見したことがある。
俺っていう男は最近つまらん男になってやしないか、ということだ。
結婚をして自分で使えるお金に制限ができたことで、行動範囲が狭くなった、という事実はあるものの、そもそも僕自身内向きになったというか、あまり外で行動をすることが少なくなった。
夫婦の時間というのは確かに大事だが、何かそれだけでコップの中を満たしているというか、大部分の時間はそこに費やされている。
ともすれば、自分のやりたい事に時間もお金もかけられていない、ということだ。
しかし、だ。
自分のやりたい事って何だ?
昔は興味のあることはそれなりに手を出した。手を出すということはお金も必要なのだけど、いま自由になるお金はない。
それが心理的蓋となり、何もできなくさせている向きはあるのかもしれないが、じゃあもしそれを取っ払ったら何をやりたいか?
あ、でもあるな。スキューバダイビング。
でもこれはコストが高いのだ。リストから除外。
自転車かな。でも改造してまでやるほど、のめり込むきっかけというか仲間もいない。
では作ればいいじゃないか、という案もある。
話は変わるが、長期的に見てやらなければいけないこと、やっておいた方が良いことがある。
・英語
・運動
・人との交流(新しい友だちを作る)
主にこの3点。
英語と運動は持続的にコツコツやらなければいけないこと。
なのに何かと億劫がってできていない。それによって苦しむのに。
やらないですめばこしたことはない、そいういう自堕落な精神が、転じて僕自身を裏切り続けており、それが僕の中で大きなダメージとして蓄積されているのだ。
なんて情けない男だろう。
人との交流というのは、結局のところ世の中は人と人との繋がりの上で出来ているのであって、もっと積極的に人と関われるようになりたいと思うからだ。
最近、結構僕は人嫌いなのかなぁと思う。嫌いというより、面倒くさがりだ。
必要以上に人と関わろうとはしないし、他人の面倒に巻き込まれたくない、という考えが先に働いてしまう。これが内向きにさせる。
一方で、もっと前向きに人と関わりたいとも思う。特にコミュニケーション能力の面でだ。
僕は話をするより話を聞くほうが楽で好きなのだが、話さないでいると話下手が下手なままなわけで、いざ話すとなると話下手が話すのでつまらないものになる、と思うのだ。僕の場合はね。
その日あるいは最近あった出来事や、読んだ本の話、時事問題などなど、話すというアウトプットをしないと、なんとなくインプットされ、なんとなく忘れていく。
話すことでその情報が強化される面を考えれば、話すという刺激を多く持ったほうが良いなぁと思う。
妻に話を聞いてもらおうと思うのだが、あまりそういう趣旨の話は聞いてもらえないのが悲しいところ。いや、まだチャレンジしていないか。
老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路
最近、「老いる家 崩れる街 住宅過剰社会の末路」という目を引くタイトルの新書を読んだので雑感を。
都市計画という観点から眺めた時に見えてくる、現在の日本社会が抱える問題点を分かりやすくまとめてくれている良書。
どのような現状があるのか、そしてどのような問題点が語られているのか、というところを、少しまとめてみた。
現状の認識
目下人口減少の道を歩む日本は、不思議な事に住宅過剰社会なのである。
最近の読書
ドナルド・トランプが大統領に就任してから次々と大統領令に署名をしてはニュースになる。
27日にはテロ対策としてイスラム教7カ国からアメリカへの入国を禁止する(永住権を持つ人も対象になる)大統領令に署名し、大混乱が発生している。
NY連邦裁判所が一部を執行停止にしたと報じられているが、混乱は続いている。
大統領に就任すればもっと現実的な言動になると思いきや、トランプ節は変わらず続く様子である。
トランプの就任を待たずしても、国際情勢は常に動いており、歴史や国際政治などの教養が皆無な僕ではあるけれど、少しでも見る目を養わなければ、世の中からぽかんと置いてきぼりをくらうことになる。
まず手にしてみたのは佐藤優氏の以下の本。
大国の掟―「歴史×地理」で解きほぐす (NHK出版新書 502)
- 作者: 佐藤優
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2016/11/08
- メディア: 新書
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地政学的な観点から主要国の戦略を読み解き鋭く考察している。
密度の濃い内容で僕にとっては難易度が高く、細かく頭に残らないので再読が必要だ。。
この中でアメリカについては海洋国家という視点を持ち、海洋国家ならではの、大陸とかかわりを持つか持たないかという選択肢があるといい、アメリカは孤立主義に回帰しこれまでの大陸との関わり方を見直し、内向きになっていくと読み解く。
エマニエルトッドの論を引用し、アメリカの民主主義は外部をもたないと成立しないことに触れている。なるほど、今まさにヒスパニック系の移民やイスラム教徒を”外部"として見出し、白人の貧困層に訴えかけているのがトランプなのだ。
新自由主義がもたらした経済格差の拡大、社会的流動性の低下、庶民の生活レベルの低下、そうしたことが土壌となり、アメリカ国民のマグマがトランプ大統領誕生の原動力になっている。
この流れはヨーロッパでも見られるのは周知の通りで、イギリスがEUを離脱したのも移民による問題であり、国民の感情が主たる理由だ。
フランスでも極右政党の支持が拡大されていたり、次にEUを脱退するのはイタリアか、とも言わる情勢であったりと、各地でナショナリズムの機運が高まっている。
…と少々脱線したが、本書ではドイツ、ロシア、中東、そして中国についてもそれぞれ触れており、参考書物と一緒に紹介されているので、本書でエッセンスを学び、参考図書に足を運べるようにもなっている。
各国の出来事が相互影響しながら物事が進んでいっていると思うのだが、やはりアメリカの影響力は大きく、その新しい大統領であるトランプ氏は過激な言動で注目を集めるのに事欠かない。
少しでもトランプ政権を知りたいと思い、興味本位で手に取ったのはこの本だ。
僕は視聴していないのだが、すでにNHKで放送された特集があり、そこで描ききれなかった取材内容やその後の情勢を付け足して出された本書。
実際の取材、インタビューが掲載されていることで、どうしてトランプ氏が支持されたのかを、納得して読むことができた。
今まで政治的にもスポットライトがそこまで当たってこなかった、いわゆるブルーカラーの人たちが、雇用を失い翻弄されてきた姿や、学生たちが当時サンダース氏の言葉にどれだけ期待をしたか、あるいはメキシコの国境付近で何が起きているのかなど。
トランプ氏に近い周囲の人々や、著名人らのインタビューも多く掲載されている。
その中で、アメリカの政治学者であるイアン・ブレマー氏の言葉が印象に残る。
トランプは、アメリカの価値観を世界に広めることを望んでいません。世界とアメリカの関係を、その場の利益に基づくものにすることを望んでいます。(中略) 何であっても、得になればよいと考えているのです。トランプが熱心に取り除こうとしている事柄こそ、アメリカの世界的リーダーシップの中核となっていたものなのです。残念ながら、アメリカに代わってその役割を満たす国も、他の一連の価値観も存在しません。
今日の貿易を否定し、強引に二国間協定の手段を取ろうとすること。
よりアメリカ国内に投資し、アメリカ人の雇用を増やすこと。
シンプルではあるが、ではそれで国内の経済が豊かに循環するのか、というのは疑問だ。
世界は互いに繋がり相互作用しつつ歩んできた。移民の労働力があって今の生活が支えられている。
それを政治の力で強引に変えるのは、大きな反作用を生み、アメリカ経済に悪影響をきたすのではなかろうか。
二項対立で物事を見ているのだとしたら、それは危険なことであるはずなのに。
日本においては、アメリカとの貿易関係も、国防のあり方も、様々な点で見直しが迫られるのであろうし、国際社会における日本のプレゼンスというのも、変容していくのだろう。
もっとニュースに触れなければ。
年を明けて
気がつけば年を下旬へ突入。
1月から仕事面でもいくつかイベントがあり、ゆっくりしていられない状況が相変わらず続いている。
私生活面においてはいくつかの本を読み、新年にありがちな、よし今年こそはとライフスタイルを改めたいと思いつつ、やはりというか日常の惰性に抗うこともできず、いや身を任せ相も変わらず誘惑に影響されまくっている。
とは言いつつも、昨年は読書の頻度が下がり、また読んだとしてもブログにすることもなく忘れていくのだが、やはりアウトプットは大事である。
妻がひょんなことからアウトプットをするようになってから色々と調子が良いところを間近で見ていると、尻を叩かれる気持ちになり、僕も少なくともブログの更新をもうちょっと頻度を上げたいと思ったりする。
読んだ本のことは次の機会に譲るとして、最近映画を見たので少々。
なんとなく気にはなっていたこのタイトル、あと1センチの恋。
幼馴染の男女が成長する過程で生じる微妙なすれ違いを描いた、題材としてはよくある話。
話半分で見ていた妻が要所要所で、「男女が時としてお互いの逃げ場になるの、不思議よね〜」とか、物語の顛末を見て「茶番だな」と切り捨てるお話出会った。
日本酒を煽りながら見ていたからなのか話の最後がどうだったのか思い出せない。
思い出せるのはリリーコリンズが可愛らしくハーマイオニーに似てるなぁ、演技も良いなぁ、というのと、赤髪のオバハンめっちゃいい人、ってところだ。
次。
逃げ恥で一躍スターダム?な星野源。
その原型のような主人公35歳童貞実家暮らしの男が、盲目の女の子に恋をする話。
コミカルでシニカルで時としてシリアスで結局はエロパワー。
シュールな空気感が最後まで貫かれていることで、賛否両論あるようだが、演者の味がそれぞれ見るものを楽しませてくれる。
僕としては星野源は逃げ恥でガッキーとイチャイチャしているし、本作で夏帆ともイチャイチャしいるし、とっても羨ましい限りだ。
しかしこういう役は彼の得意とするところなのか、機微が上手。
今後も楽しみだ。
良いお年を
あっという間に2016年が終わろうとしている。
みなさん大晦日はどこでお過ごしになっているのでしょうか。
今年は新しい部署で新しい仕事に携わり、慌ただしい日々を過ごしていた。
行く前からある程度の覚悟はしていたが、その覚悟がいかに弱いものであり、かつ自分自身にいかに力量が無いのかというのを場面場面思い知らされる日々であった。
仕事というのはまるで生き物のようで、自分が深く追求し探求し知識を深めていくことで、技術的に応えられ場面が広がっていく面と、あるいは視点や考え方、問題をうまくさばく、ということで仕事を片付けていく面とがある。
僕は後者であることが多く、いまの仕事でも通じる部分がありはするのだけど、前者の姿勢が弱ければ弱いほど、困難と対峙したときに窮することが少なくない。
そうした時は他のメンバーに助けてもらう、というのが手段としてあるのだけど、一人でできることが少ないままであるのは良いことではないのだ。
そうした意味で、僕は僕個人の力をもっと伸ばさないといけなく、そのために経験をつまないといけないのは変わらず必要なことだ。
そこでやっかいなのは精神的な不安や怖れなのであり、そこで二の足を踏む。
そうも言ってられないのは分かっているのだが、良くも悪くも助けられながらこなしてきた経緯があることが、僕を更に怠惰にさせるのだ。
いや、ここで怠惰になるそのこと自身、僕の問題であることを物語っている。
この精神的弱さを克服することが、今までずっと直面している僕の問題であり課題なのだ。
色々と反省すべき点を抱えていて、それらは今まで僕が何度も過去繰り返し内省しては淡く消え、再び認識する、という地団駄を踏んでいるのだ。
2017年は少しでも前進ができるだろうか。
僕は僕自身に絶望しつつ、その一方で楽観的で変わろうとしない自分がいることも分かっている。
それは自分を苦しみるだけであることも。
一体僕は何になりたいのか?
いや、何にもなりたくないのではないか。
言ってしまえば楽をして楽しく生きていきたいだけなのだ。
そしてそのために適度な努力をしつつ、しかして不足をもがき埋めようということはしない。
2017年、僕は結局そのままの姿勢でいるのかもしれない。でも、そのままで良いのだろうか。
そんなことを、ちょっと思う。
さて、もうすぐ2016年が終わろうとしています。
今年はどんな年だったでしょうか。
どんな年であっても、2017年、お互いとって良い年にしましょう!
良いお年を!